廣誠院の建物・庭園と伊集院兼常


 以下は「京の名邸宅」(毎日新聞社・中村昌夫編著)、「門 数寄の意匠」(建築資料研究社 和風建築社編 中村昌夫)、 「工芸デザイン研究会近代和風建築と庭園」(京都工芸繊維大学教授日向進、京都芸術短期大学教授尼崎博正)、 「廣誠院の建築」(京都工芸繊維大学助教授矢ヶ崎善太郎)より引用した。

T.沿革

 廣誠院は、二条木屋町の高瀬側の基点、一之船入の南側に位置している。この地は、もと長州藩邸があったところで、一之船入を挟んで北側は旧角倉了以邸、高瀬側の東側は角倉の別邸であった。廣誠院については、中村昌生・矢ヶ崎善太郎両氏によるによる詳細な論説があり(『京の名邸宅』宅中村昌生編・毎日新聞社、1999年11月他)、まずはこれに従って沿革を記す。
 明治28年『新撰京都古今全図』(田中治兵衛編)には廣誠院の敷地は「伊集院邸」となっている。


 この「伊集院邸」は、建築や庭園、茶の湯に造詣が深かった伊集院兼常の邸宅で、その建設時期は明治25年頃とされ、現在の廣誠院の主体をなす書院や茶室、庭園などは兼常による造営である。尚、兼常は明治29年〜同32年まで、現在の市田・對龍山荘の地を所有しており、この地から南禅寺へ移っている。
 二条木屋町の周辺は、明治維新後に政財界の有力者たちが最初に別荘を構えたところで、角倉別邸は明治24年7月に山県有朋が購入している。しかし、山県は翌25年11月にこれを三野村利助に売却現在の無隣庵へ移った。つまり、山県と伊集院はあいついで別荘を二条木屋町から南禅寺へ移したことになる。

U.廣誠院の建物

@ 木屋町二条の伊集院別邸

 木屋町二条下ル一之船入町、旧角倉了以本邸(現日本銀行京都支店)の南、押小路通りに面して「廣誠院」がある。山県有朋が京都別邸として第二次無隣庵を営んでいたところ(現「がんこ二条苑」)と木屋町通りを挟んでななめ向かいに位置する。
 廣誠院の建築はいわゆる寺院のそれではなく、数奇屋風の座敷(書院)と茶室からなる。庭園には高瀬川から引き込まれた大きくゆったりとした流れが敷地内をほぼ南北に縦断し、やがてふたたび高瀬川に流れ込こむ。石組みで護岸され、途中に石橋が渡されている。建築はその流れに沿うように雁行し、一部(茶室部分)は流れの上を跨ぐ構成である。この建築と庭園の主要部分が伊集院兼常によって造営されたものである可能性が夙に指摘されていた。
 現在廣誠院が位置する一之船入町は、江戸初期から長州藩が広壮な邸を営み、幕末維新には重要な政治的拠点であった。明治4年(1871)、同地に勧業場が開かれる。京都府の勧業事業(製紙・化学他)の中核を担った地であった。やがて明治21年(1888)長州藩邸跡地に近代洋風を目指した常盤ホテルが開業し、同28年(1895)には京都ホテルと改称する。明治28年発行になる「新撰京都古今全図」を見ると「旧角ノ倉」邸の南、それまで「勧業場」があったところは「京都ホテル」となるが、その京都ホテルの敷地の一隅、今の廣誠院がある位置に「伊集院邸」の書き込みが確認できる。
 これは、近世に長州藩邸があったところに勧業場がおかれ、やがてそれが閉鎖された後、同地に開かれた京都ホテルの一隅に伊集院が邸を構えていたことを示すものであろう。今の廣誠院の位置に明治28年ころ伊集院の邸があったことがわかる。
 京都地方法務局所管登記簿で現在廣誠院がある土地の所有者の変遷を辿ると、明治23年(1890)5月勧業場の土地が分筆されて、その一部が神戸市に住む前田八十なる人物の所有となり、以後同年5月大阪の桑原深造、同25年(1892)8月東京の伊集院兼常、同29年(1896)7月滋賀県の下郷傳平とその所有者をかえる。明治35年(1902)4月愛媛県新居郡(現新居浜市上原)の廣瀬満正に所有権が移転後、廣瀬家の所有となり、昭和に入って法人化されて現在の廣誠院となっている。このことから明治25年(1892)8月から同29年(1896)7月まで伊集院がここを所有していたことが明らかである。この時の伊集院兼常の住所は、「東京市芝区西久保桜川町13番地屋敷」であったから、東京で活躍していた伊集院はここを別邸として利用していたとおもわれる。
 また、平成9年5月に終えた廣誠院建物の解体修理の際、天井板裏面に「伊集院」の墨書が発見され、これにより現在の建物が伊集院兼常によって造営されたことが確認された。
 以上から、伊集院兼常は明治25年から4年間ここに別邸を構えており、現在の廣誠院にのこる数奇屋風の建築はその時造られたことがわかる。高瀬川(源流は鴨川)から引き込まれ、ゆったりとした流れが敷地内をほぼ南北に縦断する庭園も伊集院によって作庭されたものと考えられよう。

A 廣誠院

 自分の住宅だけでも13ケ所つくったとされる伊集院兼常である。その足跡を辿るのは容易でないが、京都においては明治25年からここ木屋町二条に別邸を構えた後、同29年からは南禅寺の近くに別邸を構え移り住んだことが判っている。この伊集院南禅寺別邸は「對龍山荘」となって現在に至っている。
南禅寺別邸では、伊集院自らの構想で建築・庭園を築いていた(『江湖快心録』)。それは、山県有朋の第三次無隣庵と同様、京都の東山山麓、特に南禅寺の近傍での別邸(別荘)造営の初期の実例として注目されるものである。以後、東山山麓では山県や伊集院の別邸造営を先例として多くの別邸・邸宅が営まれ、やがては一大別邸郡が形成される。
 伊集院が木屋町二条の別邸を手放した後、この地は明治29年(1896)7月滋賀県の下郷傳平の所有となり、同35年(1902)4月には廣瀬満正が所有した。満正ははじめ別邸として利用していたが、晩年は常の生活の場となり、昭和3年に死去後夫人う多(歌子)は私財を投じ財団法人廣誠会(理事長山崎益洲)とした後、昭和27年に満正の院号をとって宗教法人廣誠院(山号は保水山)に改組、臨済宗の単立寺院として現在にいたっている。
 ところで、下郷がここを去るとき座敷に松平不昧公になる「環翠」の軸をのこしていったと伝えられている。そのため、後に奥の座敷(茶室)を環翠とよぶようになった。今も奥の茶室に通じる廊下の小壁に環翠の扁額が掲げられている。

 財団法人廣誠会設立にあたり、昭和7年に仏堂新築等の工事が行われている。本堂屋根の露盤に認められる印刻や本堂小屋裏にのこされた棟札によってこの時の様子がわかる。
 満正没後、廣誠会・廣誠院を通じて主人の遺志を継ぎ、その精神と建物・庭園を後世に遺した夫人う多は昭和27年(1952)ここでなくなった。
 本山をもたず臨在の寺院として一族の菩提を弔う庵といった性格の寺として現在にいたっている。

B 書院主座敷

 現在の廣誠院のうち、伊集院時代の建築がのこっているのは玄関から南東部分にある庭園に向かって雁行型に配置される書院の主座敷を中心とした部分と庭園の流れの上に構えられた茶室、それに境内敷地の東側に沿って南下する高瀬川のせせらぎを聞く広間(書院)である。
 瓦が布敷きされ低く小丸太を並べた式台のついた玄関をあがると、取次の間から次の間10畳へ、さらに13畳半の間へと通ずる。 そこは、南方の庭に深く突き出たこの屋敷の主室にあたる書院座敷である。
 台目3畳の床の間と1間幅の地袋が設けられ、南と東は全部腰障子で庭に向かって広々と開放できる。
床柱は5寸ほどもある見事な自然の絞り丸太で面はつけない。床の間の正面、大平(おおべら)の上部に織部板が打ち付けられ、床天井の奥が一段高くつくられている。特に長い掛け物を吊るすときの備えである。実は、これは伊集院の南禅寺別邸の名残とされる對龍山荘の聚遠亭にも共通した手法がみられる。床の間の脇壁には火灯窓をあけ、上部に欄間をいれて平書院の意匠としている。欄間は転用材かもしれない。次の間との境の欄間には菊桐紋を透かした桐板を仕込んでいる。中央の吊束を省略する扱いは近代になって広まった試みである。
 次の間の袋棚の小襖には華麗な風俗画(市井の人が蹴鞠で楽しんでいる図)が描かれ、地袋には渡来物の裂地を張っている。七宝による精巧な引手など、特に意匠が凝らされている。
 座敷の南から東にかけて深い軒が形成され、軒裏は木舞を省いて一面に杉皮を張り、長く細い小丸太が化粧の垂木として配されている。そうした化粧屋根裏を一本の杉丸太の桁が支える。桁を支える支柱も極力省き、軒下は大きく吹き放たれている。座敷からの景色に配慮した見事なつくりである。
東から南にかけて縁がまわっている。東の縁は竹をはさんで樽板を張り、手摺がつく。座敷への行き来のための通路として、また手摺にもたれて流れ越しに東山を眺める高床の役割も果たしたと思われる。
一方南の縁は東のそれより一段低く据えられ、栗の六角ナグリ材を木口を見せて並べている。こちらの縁は庭と座敷との上り下りにはたらき、縁先には手水が据えられている。深い軒の構成は對龍山荘の聚遠亭のそれと類似しており、また、縁先に立てられた高欄の意匠は、同じく對龍山荘の書院のそれと 共通しているのは興味深い。東の縁の下に柱を省いてハネ木で縁先を支え、高い床下を白竹の詰張りで隠しているのは外観を軽快に見せる為の工夫であろう。

C 茶 室

 書院と広間をつなぐ位置にあり、高瀬川から引き入れた水の流れの上にのり出すようにつくられている。細い支柱が床を支えているが、あたかも吊座敷のような軽快な外観を呈する。躙口(にじりぐち)
は東面する。広間の深く差し出された土間庇の下に打たれた飛び石を伝い、天正の時代銘のある手水鉢に蹲踞(そんきょ)して身を清めてから、一旦縁に上がり躙口にいたる。すなわち縁から席ににじり入る形式である。茶室内部は3畳中板という間取りで下座床。中板を挟んで客座と点前座が並び、西面の中央に床を構える。松でできた中板には節目を見せた大胆な板が選ばれている。点前座の風呂先に中柱を立て、横木を入れて下を吹き放し、上は壁にして大きな下地窓をあけている。勝手付けに釘箱棚とよばれる形式の特殊な棚が仕付けられている。中柱まわりのこの部分は裏千家の茶室・無色軒と同じ構成で形づけられている。また棚の側板に透かされた格狭間は裏千家又隠の勝手にある有名な炮烙棚の透かしの形に似せている。客座の南に大きな円窓があき、時には座中から池庭を眺めるなど、あたかも御座敷船で茶を楽しむような風流で洒落た気分を醸しだしている。自然の景を座敷の中に取り入れ、それをもてなしとして茶が振舞われたのであろう。わび茶に相応しいひなびた草庵とは一味ちがった雰囲気をもつ茶室である。

D 広 間

 屋敷の東端、高瀬川の流れを傍らに聞く8畳の座敷を広間とよんでいる。水屋と隣接し、茶室としての機能を備えた広間である。北に上座床を構え、四畳半切に炉を切る。点前座の勝手付きは角を大きく取った下地窓で、風呂先にあたる部分には2段の袋棚を設けている。上段の襖は古代布を張り合わせたもの。下段は杉戸の一部を切り取った板戸である。何れも由緒ある古物である。床の間は一間床であるが、右方に袖壁をつくり、下地窓を開ける。袋床とよばれる床の間である。ここでは床の間の中の袖壁で隠れたところに三角形の棚が設えられている。袖壁の奥に隠された陰の棚である。軸箱などを仮置きするのに役立つのであろう。花器を置いて床飾りをすることもできよう。この棚と反対側の側壁も斜めにつけられ、間口に対して、床の大平の壁面が広げられているのは、掛け軸をかけたときの中心の位置を調整したものか、あるいは大幅の軸をかけるときの都合を考慮したのかもしれない。正面から見ると、床の間の奥行きが一層深く感じられ、作者の創意による珍しい工夫である。床柱の材種は不明。
 座敷の東側は杉皮を張った板塀が立ち、その向こうには高瀬川が流れている。今は木屋町の通りも交通量が多く、対岸には中小の商業ビルが建ち並んでいるが、かつては高瀬川から鴨川越しに東山の山並みが遠望できたであろう。南の明かり障子を開けると、低いところに竹のスノコ縁があり、そこから庭に通じている。ここから南方の景色は茶室と主座敷が雁行して並び、大きく張り出した軒の深さが印象的である。

V.大正・昭和の増改築と変遷

  現在の廣誠隠の建築は、伊集院邸時代からは大きく変更されている。特に、主屋部分には二回に亘る大きな増改築が行われている。
 第一の増改築は大正10年に主屋北西に洋館が新築され(木造地下1階、地上2階建て)洋館と主屋を接続する木造二階建ての棟も増築された。この洋館は大阪の八木甚平(2代目)の作である。
 第二の増改築は、廣瀬邸が廣誠院になった昭和7年頃でこの時に伊集院時代の主屋形状が大きく変更された。ここで、変更前の詳細を知ることはむずかしいが伊集院時代の建築について、寺院にのこっている『京都廣瀬別邸増築工事配置平面図』は、第一回増改築に際し作成されたもので、ここには、改築以前の主屋の輪郭が「在来の建屋」として描かれ、これが伊集院邸にもっとも近い状態を示していると思われる。寺院所蔵『地所建物売渡契約証書』には、明治35年の購入時における各建物の坪数や形状が記載されている。この情報と「在来の建屋」の形状と比較検討したところ、旧伊集院邸の概要は次のように推測された。

 現存する書院と次の間の西隣には、書院から連続する縁を介して、庭を望む二間続きの座敷があり、その更に西側には、廊下を挟んで、台所など内向きの空間があったと考えられる。さらに、邸の最も南側にあたる蔵も南奥には、廊下を挟んで、庭と東山を一望できる2階建ての座敷があったのではないかと推測される。即ち、元の伊集院邸は高瀬川の流水を利用して主屋南東に築かれた広い庭を包み込むように、二つの茶屋、広遠を備えた書院座敷、及び各建物を雁行型に配置し、主庭の反対側になる建物の北西部分には内向きの空間を設ける姿であったと想像される。
 昭和7年に行われた第二回の増改築では、『廣瀬邸改築設計図』で明らかなように、主屋の東側部分は、書院・次の間・二つの茶屋をを残し全面的に改められた。この資料により、現存する廣誠院の建築のうち伊集院邸時代の遺構とみなされるのは、書院と次の間、これらの北東に連続する茶室と8畳の広間にほぼ限定されることも確認された。
 昭和7年の増改築の主眼は、寺院の機能を付加することにあった。主屋の北側に仏間、西側には2階建の庫裏が新築された。仏間は外陣と内陣を備え、内陣の外観は桧皮葺の宝形屋根である。仏間と庫裏は、玄関と門がひらく当邸北側の押小路通りからも望まれる。当邸外観の印象は、この増改築によって大きく変化した。
 しかし、書院まわりの改築では、既存部分との調和に配慮が払われている。例えば、書院の広縁が突きあたる座敷の外壁には大きな丸窓が設けられ、これは池を挟んで向かい合う既存の茶室の丸窓を意識した意匠とみなされる。
 以上、廣誠院は、明治期の質の高い邸宅建築の主要部分をのこし、且つ、明治期以降、昭和初期にかけて、洋館や寺院昨日など新たな要素が付加された遺構と評される。

W.廣誠院の庭園

 作庭の時期は明らかでないが、伊集院時代の可能性が高い。とすれば、無隣庵に先立つ京都における近代造園の草分け的な庭園ということになる。その作庭者も伊集院自身である可能性が高い。
 伊集院兼常(1836〜1909)は旧薩摩藩士で、軍人として、のちには実業家として活躍した人物である。薩摩藩の普請を担当していた経緯から建築や造園の才能に恵まれていたらしく、明治32年に南禅寺の邸宅を訪ねた黒田天外(美術評論家)に「私ぐらい多くの建築のことをやったものはなかろうと思う」と述べている(黒田天外:『江湖快心録』明治34年)。また、植治(庭師、山県有朋にひきたてられた)も「伊集院さんほどの名人は滅多にいません。普請といひ、庭園といひ、先ず近世の遠州公(小堀遠州)どすな」と賞賛している(黒田天外:『続々江湖快心録』明治43年)。
 明治42年に京都府庁が発行した『京華林泉帖』には、明治期に造られた二条木屋町周辺の庭園として、「田中氏河原町邸」「田中氏二条樋口邸」「林氏木屋町邸」が掲載されている。「田中氏河原町邸」は旧角倉了以邸で、明治39年に田中氏の所有に帰したのちに、植治が鉄管を用いて鴨川の水を引き、瀧と流れを造っている。高瀬川の取り入れ口に位置する「田中氏二条樋口邸」は旧角倉了以別邸で、山県有朋から三野村利助、川田小一郎、清水吉次郎を経て、明治39年に田中氏所有となった。
 邸内を高瀬川が流れるプランは角倉了以ならではのことである。のち、大正7年に阿部市太郎へ所有権が移るが、同9年に植治が作庭を行っている。「林氏木屋町邸」は京都府の植村知事が所有していたものが、新宮涼亭を経て、明治27年に林誠一の手に帰した。この庭園にも鴨川の水が引き入れられていたと記されているが、高瀬川の西、御池通りの南という位置関係から推して、高瀬側からの導水の方が有利なように思う。
 どうしたわけか、この『京華林泉帖』には廣誠院らしき庭園は載っていない。興味深いのは、『林氏木屋町邸』林泉の写真をみると、流れのような池に長い石橋を架け、岸に沿って沢飛びを打ち、かつ飛び石の一つに円筒形の加工石らしきものを用いるなど、その手法が廣誠院の庭園に酷似していることである。あるいは、この庭園も伊集院兼常の作であり、かつ、そのデザインが後の植治の作庭に影響を及ぼしたとする仮説も成り立つのではないか。

@ プランとデザイン

 高瀬川と一之船入の交点から分流し、敷地東北隅から引き込まれた高瀬川の水は、広間と茶室の下を潜って、書院の東北から南へと延びる細長い池へと導かれる。池に張り出した書院と水面とのレベル差は大きく、東南隅の庇を支える柱の礎石が池中に据えられているのも涼しげである。
 書院から南側の主庭を眺めると、正面の低い位置に水面があり、南へ延びる流れのような細長い池の中心部に花崗岩で出来た長い橋が架かっている。そして、右手の岸沿いに沢飛びが打たれている様子は、前述した「林氏木屋町邸」林泉と驚くほど酷似している。石橋の向こうにみえる立石はこの庭の最奥にあたるところで、池尻となっている。そこから池の水は再び高瀬側へ戻っていくのである。
 書院から庭へ降りる沓脱石は菫青石ホルンフエルス、俗に言う真黒石である。大振りの飛び石が水際へと続き、沢飛びで池中を歩くようになっている。植治の庭園では、このような岸に沿った沢飛びは稀である。反面、植治なら石橋の架かっているところは、何らかの形態の沢飛びにしたことであろう。
 池の水面が低いため、地形は護岸石組から比較的急な勾配で上がっている。西側の空間は飛び石で回遊できるようになっている。矢跡が刻まれた石橋を渡り、東側斜面を上がりきったところの外側は高瀬川である。池の周辺にはモミジが植栽され、周辺部には椿をはじめ常緑樹が多い。広間の正面にはイチョウとナギも植えられている。
 東北隅に位置する広間は軒が深く、軒内には礎石を交えた飛び石が打たれている。正面の軒先には蹲(つくばい)が組まれていて、円筒形の水鉢の側面に「天正・・・五月・・・」の銘がきざまれている。三条大橋あるいは五条大橋の橋脚であったことを示している。同様の橋脚を、植治は平安神宮や円山公園、京都府庁などで用いている。ここにも伊集院兼常の影響がうかがえる。

A 庭石と石造品

 庭石には丹波層郡のチャート・砂岩・頁岩・塩基性火山岩・石灰岩・ホルンフエルス(角石)等が用いられている。特徴的なのは橋挟石や立石、あるいは主要な景石に結晶片岩が用いられていることである。これは、どちらかと言えば近世以前の庭石の石質構成に近く、植治の庭園で多用されている守山石はほとんど見当たらない。また、植治は織宝苑などの例外を除いて、全くといってよいほど結晶片岩を用いていない。
 石造品の主なものとしては、前述した橋脚の手水鉢、池の東側に立つ六地蔵石幢、池際の変形雪見灯籠、東南隅に立つ巨大な善導寺型石灯籠、池の西岸近くに立つ葛屋型石灯籠などで、夫々個性のあるものが選ばれている。六地蔵石幢の幢身には、「奉造立地蔵菩薩造一基/寛文十三年(1673)癸丑二月吉日」の銘文が刻まれている。

X.伊集院兼常

 黒田天外が京都南禅寺近傍の伊集院邸を訪れた時の訪問記(黒田天外著『江湖快心録』1901)がのこっている。そこに伊集院自ら自分の生い立ちを語った部分があり、伊集院の経歴を知る手がかりとして貴重な資料である。要約すると凡そ次のとおりである。

 この内容は『明治過去帳<物故人名辞典>』(大植四郎編著 1935年原著私家版、1971年新訂初版東京美術発行)や、『幕末維新人名事典』(新人物往来社 1994)に書かれた伊集院の経歴と矛盾しない。また、確かに日本土木会社の設立の際、東京側の株主として大倉喜八郎、渋沢栄一に次いで伊集院の名が上がっている。(菊岡倶也著『建設業を興した人々――いま創業の時代に学ぶ』(彰国社 1993)。原典は『渋沢栄一伝記資料』所収『顧伺届録、明治21年』)
 伊集院は早くから建築を学び、西洋建築にも取り組むなど、進取の気性をもっていたこと、また、建築技術者として島津斉彬や井上馨等に見込まれるなど、日本の建設業の発展に寄与した人物であったことが想像できる。また、自らの住居も多く営み、建築や庭園を好んで造営していた。
 尚、『明治過去帳<物故人名辞典>』は伊集院の生没年を天保7年(1836)〜明治42年(1909)とし、『幕末維新人名事典』では天保8年(1837)〜明治42年(1909)としている。上記、斉彬公が藩邸内に「地震の室」なるものを造ったのが仮に嘉永6年(1853)で、伊集院18歳(数え年)の時だったとすると、生年は天保7年(1836)であったことになる。
 ところで、庭師「植治」こと小川治兵衛は、明治から昭和初期にかけて、京都の東山地域を中心に別邸・邸宅が造営される過程で、多くの庭園を作り別邸郡の成立に積極的に係わっていたことが知られている。その植治が作庭術を身につける上で多くの事を学んだと自ら述懐する人物が3人いた。
その3人とは、先にも記したが山県有朋、中井弘、そして伊集院兼常のことである。
 また、山根徳太郎編著『小川治兵衛』(小川金三発行 1965)所収、光雲寺住職の談話にも「伊集院さんが作庭の上で、植治よりは先輩で中々見識があり、若い頃から教えられ学び知った」とある。
黒田天外の記録にあげられた3人の人物の内、山県と中井は施主的な立場から植治を動かし、自らの庭園感を植治に教示したのに対して、伊集院は建築及び庭園技術者の先達として、植治が作庭術を習得する上で直接的な影響を与えた人物であったと考えられる。
 さらに、伊集院は裏千家12世又妙斎(1852〜1917)のころ、茶の湯に親しみ13世園能斎のよき後援者として裏千家の活動を支援した茶人であったことも知られている(井口海仙著「園能鐵中宗室居士抄伝」)(『園能鐵中宗室居士』淡交社1974)。
茶会記ほか近代の茶道関係資料のうち、刊行されている主なものから伊集院の名を探すと明治29年3月の「風流記事」/益田鈍翁をはじめとし大正10年9月の大正茶道記/高橋箒庵まで13件の記事がある。近代の代表的な数奇者である益田鈍翁が主催する茶会に何回も招かれ、多くの数寄者と交流していたことや、井上馨公爵や数寄者ほか幾人かが住したと伝えられている馬越恭平の住む桜川茶寮に伊集院の姿があったこと、また、当時の数寄者のリーダー高橋箒庵にとっても重要な茶友であった。このような関係を通じて茶室や庭園の造営を依頼されることもあり、実際に手がけていた。
 このように、伊集院兼常は近代の建築技術者として、また、近代の茶の湯に適う数寄空間の創始者として活躍するとともに庭園の面では植治の作風に大きな影響を与えた。

(最近の主たる工事実施状況と京都市の文化財指定)
  ・平成7年 〜9年 書院・茶室・仏堂の連続棟、老朽化対策修理工事、及び庫裏新築工事実施
  ・平成11年 5月 庭園植栽整備・園池浚渫・表土補修工事
  ・平成16年 4月 書院・茶室が京都市指定有形文化財に、庭園が同名勝に指定
  ・平成20年12月 建物耐震補強・防犯機器設置・離れ屋根葺き替え工事

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