廣瀬宰平

河原町邸(79歳)

(諱・・いみな・生前の実名):満忠
(雅 号         ):保水、遠図、宰翁
(幼 名         ):駒之助
(通 称         ):治助、新右衛門、義右衛門、宰平

(はじめに)

 廣瀬宰平は文政11年(1828)5月5日、父医者・北脇理三郎景瑞(満馨)、母美根(三根子)の二男(二男五女の3番目) として近江国野洲郡八夫村(やすぐんやぶむら・現滋賀県野洲市中主町)に生まれた。 天保7年(1836)9歳のとき別子銅山勤務の叔父北脇治右衛門に伴われ銅山に入った。 同9年正月泉屋(住友)に奉公して別子銅山の勘場(かんば・鉱業所本部)に勤務、安政元年(1854)大阪の商人今西徳右衛門の娘相子(於相) と結婚、翌2年4月28歳のとき住友家第10代当主友視のはからいで、廣瀬義右衛門義泰・妻為(ため)に夫婦で養子に入った。

廣瀬義右衛門義泰 妻為(ため)

 初代義右衛門は美濃国安八郡神戸村(現岐阜県安八郡神戸町)の出身で別子銅山勤務を経て浅草出店(札差業)支配人となり、引退に際しては、予州住友別家となっている。


 結婚僅か1年後、妻は24歳にして病没、安政5年(1858)5月大阪の商人八尾三右衛門 の娘満智(町)と再婚、同6年(1859)12月に長男満正が誕生している。    その後宰平は累進して、慶應元年(1865)9月28日38歳で別子支配人となったが、この間仕事の合間に漢学を勉強、中国の古典によって人の生き方や事業経営の在り方を学んでいる。 慶應4年(1868)、維新の動乱に際し土佐藩に接収された銅山の経営権を新政府に認めさせ、 住友重役の経営難を理由とした銅山売却案に断固反対、フランス人技師を招き鉱山の近代化を推進した。明治10年住友家総理代人(後の総理事)となり、同15年住友家法を制定して組織の近代化を図りその後の発展の礎を築いた。  
 明治25年(1892)7月19日、殖産興業に尽力した功績により、渋沢栄一・古河市兵衛・ 伊達邦茂と共に民間人として初めて明治勲章(勲四等瑞宝章)を授けられた。
河原町邸

 この頃、その後の事業方針が時代に合わなくなり明治27年11月25日、57年間勤務した 住友を引退、後事を甥の伊庭貞剛に託した。
 翌年自伝『半世物語』を著わし、明治30年以降神戸須磨の別邸に隠棲したが、国家と主家に対する忠誠心を終生忘れず他界する前年「逆命利君 謂忠之(命に逆らっても君を利す、これを 忠という)」と揮毫した。



 大阪四天王寺(天王寺区)で葬儀告別式の後、実相寺(上本町)に葬られ、新居浜市角野 山田、大阪阿倍野墓地(後市設瓜破霊園へ移設)、近江八幡市日牟礼の北脇本家の3ケ所に分骨埋葬された。 法名 廣照院英譽壽山保水大居士

(北脇家と八夫村)

 北脇家は八夫村の草分けで、家伝によると先祖は越前の脇本次郎成重、その長男が南脇、次男が北脇を称し初代北脇重弘から六代目の重則のとき、延元2年(1337)頃、野路・篠原の合戦で武名をあげ江州八夫村をはじめ16ケ村の地頭に任ぜられたという。それから17代、江戸時代の享保年間(1716〜35)の当主満豪が八夫村北脇家の実質的家祖である。江戸時代の八夫村は村高1655石余で、大阪定番稲垣重綱領であった。元禄11年(1698)頃、旗本酒井・松平・朽木の三氏知行所と三上藩領(遠藤氏1万2000石)の四給となりその知行高の割合は酒井31%、松平24%、朽木9%、三上藩36%であった。
なお、三上藩八夫領597石は、文久元年(1861)271石が上知され、信楽代官の支配となり、残り326石も慶應 2年同様に上知された。明治維新に際しては、新政府(大津県)の直轄地となったが、明治2年 川越藩領(松平氏・8万442石、内江州領2万石)となり川越県に属し、同4年の廃藩置県によって再び大津県に属した。その後、大津県、滋賀県となった。  
 北脇家は、初代満豪のころから三上藩領に属し、その庄屋をたびたび勤めた家系である。三上藩領八夫村の人口は、宝暦9年(1759)時点、男86人・女91人合計177人であり、幕末までそれ位であった。四代理三郎・満馨が、廣瀬宰平や伊庭貞剛の母である田鶴子の父にあたる。彼は医者であり、その兄弟は住友の別子銅山の支配人治右衛門・紹満、京都洛北の天台宗曼殊院や近衛家の儒官淡水・志鴻、広橋大納言家の用人進徳など何れも優秀であった。
 理三郎満馨・美根(近江八幡奥の嶋、南家)の子(2女5男)も優秀で、長女田鶴子は近江の名族伊庭兵七郎正人貞隆に嫁ぎ、その子が住友二代総理事伊庭貞剛である。長男泰次郎は父の後を継ぎ医者に、二男満忠(幼名駒之助)は叔父治右衛門の養子となり別子銅山勤務、後廣瀬家の養子となって明治に宰平と称し、初代住友の総理事となった。三男斎蔵は彦根藩領島村(現近江八幡市島町)の庄屋奥西家の養子となり文平を継いだ。 尚、長男泰次郎は慶應3年急逝し(医師有隣家を継ぐ)本家の跡継ぎをなくしたので、廣瀬宰平は一計を案じ姉の二男伊庭満和を父満馨の養子として北脇家を継がせ、同家に伝わり自分の通称であった新右衛門を襲名させた。彼は、八夫村副戸長、県会議員を経て滋賀県に奉職、明治19年〜36年まで住友に勤務し滋賀県醒ヶ井にあった近江住友製糸場長(支配人)であった。  
 明治32年頃、八夫村の北脇本家は近江八幡の八幡山麓に移り墓所もふもとの日牟礼(ひむれ)に移している。八夫の旧北脇邸は高木神社の側にある。その長屋敷は転居に際し西宿の伊庭本邸に移築されたといわれているが、それも平成2年に老朽化で解体されている。  
 八夫における北脇家の菩提寺は正源寺(真宗仏光寺派)で墓所は村の集合墓地の中にあり、現在は分家北脇治右衛門家がまもっている。

(事業活動)

 幕府の崩壊により住友家は大阪の銅製錬所と愛媛県の別子銅山が新政府に接収された。この危機を救ったのが廣瀬宰平である。廣瀬は新政府に対して国益という観点から理論闘争をを挑み、住友の産銅事業継続を承認させた。また、住友家の経営難から別子銅山の売却を主張する重役に対し「血涙を注ぎて争議し」その暴挙をくいとめた。
 その後の改革は素早かった。住友家の事業を本業の産銅事業一本に集約し、江戸・大阪の金融店部(札差)を閉鎖、大名貸しなどの不良債権を切り捨てた。一方、明治2年には別子銅山の金融緩和を図るため「山銀札」という私札を発行、翌3年には管理職の賃金カット、同6年月給・等級制や能力主義人事を採用、実施した。 そして何より外国資本に対抗し世界の市場で競争できる産銅コストを実現するには、別子銅山の近代化を達成しなければならなかった。明治7年廣瀬は、フランス人技師ラロックを雇い入れ 「別子鉱山目論見書」という近代化プランの作成を依頼した。これに基づき採鉱・精錬・運搬の近代化を達成、瀬戸内海に面した新居浜に洋式製錬所と港湾設備を建設、新居浜から別子銅山まで鉱山鉄道と索道を敷設、別子山中にはトロッコが行き交い、蒸気巻上げ機や削岩機が使用された。これらの構造改革により、江戸時代以来の運搬夫などが大量に解雇されたが、近代化による新たな事業部門を創出しこれを吸収した。  
 廣瀬の有名な逸話に、「相変わりて御芽出度く候」という挨拶がある。住友の新年宴会で当主や守旧派の人々に対し、この文明開化の時勢に旧習に凝り固まったままでは滅亡するぞ、今こそ変革が必要だと訴えた。  
 明治10年2月、廣瀬は住友家当主から事業の全権を委任され、住友家総理代人(後の総理事)に就任した。ここに、機構改革の主眼とした家と店、即ち、オーナーと経営者の分離が実現した。 同15年3月制定された住友家法には、「君臨すれども統治しない」住友家の象徴性がうたわれ、 「信用確実を旨とし、浮利を追わない」経営理念が成分化された。事業が多角化し規模が巨大化 するにつれ専門家した経営者の輩出と育成が要請され、時代を超えて経営理念の継承が必要とされたが、動乱期を生きた廣瀬だからこそそれが充分予知できたのである。



 明治10年から20年代にかけては、住友の事業を国家の発展にも寄与させようと、産銅業界はもとより海運業・製糸業・製紙業・製鉄業・化学薬品業(硫酸・樟脳)・石炭業までにも多角化し輸入超過の貿易に対し防波堤となり、外国資本と対抗しようとした。  なお、外に向かっては明治初年鉱山司の役人として、我が国鉱業政策の成立に関与する一方、未熟な民間資本を育成するため大阪財界のトップリーダー五代友厚(旧薩摩藩士)らと図って 多くの会社設立に関与し、明治11年大阪商法会議所の副会頭、同12年大阪株式取引所の副頭取、大阪硫酸製造会社の頭取、同15年関西貿易社の副総監、大阪製銅会社の社長、また、17年には大阪商船の頭取に就任している(何れも初代)。  
 また、優秀な人材を育成し社会に送り出すため、府立大阪商業学校(現大阪市立大学)・大阪府立商船学校の設立にも関与し、日本銀行監事・臨時博覧会事務局評議員なども歴任した。  
 これ等殖産興業に尽くした功績により、渋沢栄一(第一銀行頭取)・古河市兵衛(足尾鉱山経営者)・伊達茂邦(北海道開拓者)とともに民間人として初めて明治勲章(勲四等瑞宝章)が授与されている。関西財界からは廣瀬ただ一人「東の渋沢、西の廣瀬」と呼ばれる慶事であった。  
 明治27年11月15日引退、自伝『半世物語』を著し須磨の別荘に隠棲した。 晩年には、孫娘を連れて郷里の姉家族や京都の満正を訪ねたり、近くの綱敷天神社に散歩に出かけ、また、須磨海岸の前を往来する船の中に自らデザインした大阪商船(現商船三井)のロゴマーク「大」を見つけるのを楽しみにしていた。

須磨邸 西宿邸。姉田鶴子と 西宿邸

さらに詳しくは末岡照啓著広瀬宰平小伝
         著書:          半生物語
         遺稿集:         宰平遺績     参照

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