伊庭貞剛

(諱/いみな・生前の実名):貞剛
(雅 号        ):湖水、石山、幽庵、幽翁
(幼 名        ):耕之助
(通 称        ):正人(まさんど)

(生い立ちと仕官)

 伊庭貞剛は、弘化4年(1847)1月5日、近江国蒲生郡西宿村、中仙道に面したところ(現、 近江八幡市西宿町)の地代官である父伊庭兵七郎正人・貞隆/母田鶴子(北脇氏)の長男、同家 二十五代当主である。父貞隆(さだたか)は、泉州伯太藩(渡辺氏、1万3500石、現、大阪府和泉市)近江湖東領の地代官であった。母田鶴子は同野洲郡八夫村の医者北脇理三郎景瑞(満馨)/母美根の長女であり、廣瀬宰平の実姉である。つまり、宰平と貞剛の関係は叔父・甥の間柄である。
 兄弟は、貞剛・満和(後、北脇理三郎の養子となり北脇本家を継ぐ)・貞泰(医師本荘家に養子)・武三(夭折)・ヨ子(米、宰平の子満正に嫁し明治32年9月28日没)の5人である。
 父の正人は文化13年生(1816)剛直の代官で、また、厳格な教育家であった。潔癖で癇癪もち、強固な節義の持ち主であった。癇癪に触れて田鶴子は、貞剛を懐胎したまま生家にもどり嘉永6年貞剛が7歳になったとき怒りが解け西宿に戻っている。

 文久元年(1861)八幡町の児島一郎道場で剣道を学びその修行中に近江の生んだ出色の人物八幡町に住む西川吉輔に出会い吉輔が主宰する「帰正館」に入った。吉輔48、貞剛17歳のときであった。そこで、修身・天下国家のこと尊王思想を学んだ。明治元年(1867)1月1日、吉輔に招かれ京都御所禁衛隊に属し同2年3月京都御留守刑法官少監察を手始めに、同年7月の官制改革によって刑部省とともに初めて設置された司法機関である弾正台巡察局(本部東京、支部京都)に任ぜられた。
 明治4年新政府は廃藩置県を断行、その際の官制改革により刑部省及び弾正台を廃し新たに司法省が置かれた。この時長崎出張中の貞剛は同年8月3日司法省解部の任命を受け、帰京後司法大解部に翌5年8月7日には昇進して司法省検事に任ぜられ、6月6日政府が国法の統一を期し 主要都市に裁判所を設置するや10月5日函館裁判所勤務を命ぜられた。東京在住4年であった。
 明治4〜5年頃の東京生活の時代に、満津子(松子)と結婚、6年に長女はる子が生まれている。 当初、函館に単身赴任後妻子も続いたが満津子は風土の変化に耐えられず亡くなり(函館に墓がのこっている)、幼かったはる子は西宿で田鶴子によって育てられた。 同7年東京の本省へ出張時、麹町に住んでいた彦根藩士松本義信の長女んめ(梅子)と結婚、内祝言を済ませている(入籍は明治9年1月)。

 老いた両親のことを考え転勤を申し入れていた貞剛は同9年3月、3年年間の函館勤務を終え (この時副判事)大阪へ転勤同10年9月判事に任じ、大阪上等裁判所判事を命ぜられた。貞剛・梅子には同10年1月に長男貞吉が誕生、同27年末娘として生まれた三女敏子を含め六男三女をもうけている。
 貞剛は、官の道を退くことを決意し辞表を出したのは11年末のことである。この時の俸給は100円、当時住友家総理の叔父宰平翁と同額で待遇に理由があるのではなかった。貞剛は廉直公正あくまで節義を重んじ国家に殉ずるを官の本分とし、殊に司法官はそれが唯一の道であると信じ生一本に進んできた。然しながら、西南の役後(征韓論に破れて下野した西郷隆盛を中心とする鹿児島士族の反乱、明治10年西郷は自刃)維新の自由闊達な気風が消え、天下国家を考えてきた貞剛にとって長居すべきところではなかった。依願免官の辞令は同12年1月23日であった。
 帰国の暇乞いのため大阪の本店にいる叔父の宰平に挨拶に行ったとき、実業界の情勢、住友の事業を説かれ、君の年齢で急いで郷里へ帰る必要はないと滞阪を勧められた。これが機縁となり2月1日住友に入り実業の道を歩むことになった。貞剛33歳のときであった。最初の月給を梅子はみて思わず嘆息したというが「公利公益」を旨とする住友の事業精神に惚れ込んだのである。
 当時の実業界は新興の勢い目覚しく、繊維・金融・交通運輸他あらゆる方面に拓け、到る所 有為の人材を求めていた。住友も200年の伝統を踏まえ新たな飛躍を求め内部の組織を改め近代的経営を目指そうとしていた時期である。

西宿伊庭邸

(財界活動)

 貞剛はその年5月本店支配人(一等)に任ぜられ、10月には家長公(友親)に随行し別子銅山を訪れているが、入社後僅かな期間に家長の信任をかち得ていたことが判る。住友家の財本である別子銅山を中心にした経営が始まるが、明治27年に宰平翁が総理を辞するまでの15年間、本店にあって翁を補佐し主家の発展のために専心した。明治14年宰平が東北地方へ出張中、代理を任せられ上級3等(重役)に昇進、同19年には同2等に栄進した。
 この間住友家を代表し諸種の事業に参画、また、公職にもついている。明治12年大阪府立商船学校副取締となり同13年五代友厚他十数名の有志と計って私立大阪商業講習所を創設、これが15年に府立となり18年に府立大阪商業学校(現、大阪市立大学)となり21年に校長の嘱託を受け、講堂に「正々堂々」を揮毫している。同年11月大阪商船会社設立発起人に同19年には取締役、また、渋沢栄一、藤田伝三郎等と大阪紡績株式会社(現、東洋紡)を市街三軒茶屋に創立、重役となっている。同20年12月25日父正人没(72歳)、この年近江石山瀬田川西岸(現、住友活機園)に隠棲の地を購入している。
 次いで明治23年、帝国議会の開設に当り、滋賀県第3区より選出された(滋賀県初の衆議院議員)。明治23年は住友家の別子開抗200年に当っていた。この年、12代家長友親、学習院在学中の13代家長友忠(享年19歳)の相次ぐ死去で友忠の実質上のお守り役を任じていた貞剛は主家存続のため当選したばかりの議員を辞し、一切の公務も直ちに辞している。
 この頃、住友には重大な問題が表面化しつつあった。一つは銅山をめぐる鉱毒公害問題である。 およそ公害防止装置などなかった時代で周辺への影響はすさまじいものであった。 鉱水による水利汚染で田畑が荒れ、銅鉱石を製錬(精錬)すると鉱石中に40%も含まれている硫黄から大量の亜硫酸ガスが発生、 これが付近一帯を覆い住民の健康を害したばかりか農作物や周辺樹木に甚大な被害をもたらしていた。

 煙害がひどくなり、ついに農民運動を引き起こす事態となり、27年(1894)には住友内部から宰平の事業方針は時代に合わないと 一般社員だけではなく鉱夫までが二派に別れて争うところまで拡大、騒動は年を追って激しくなり地元住民の煙害反対闘争と結びつき住友創業以来の重大な局面を迎えていた。  この時、決然として立ったのが伊庭貞剛である。 彼は単身別子銅山に入ることを決意すると家長で15代当主の友純(内大臣徳大寺実則侯爵の弟隆磨で友忠の妹に養子として入る)に挨拶に行き、この難局を乗り切るには「銅山を潰す覚悟」が必要であると決意を述べている。

 別子銅山に赴く前に貞剛は信頼していた京都嵯峨天竜寺管長の息耕軒峩山老師(橋本峩山)を訪ねている。 老師は伊庭より6歳年下だが、既に悟りに達していた。 伊庭が山に携えていくのに適当な本がないかと尋ねると老師が 「いや、本なんか読まんほうがええよ、どうしても読みたかったら」と言って差し出したのが『臨済録』であった。 これは臨済宗の開祖臨済義玄の法語を編集したものでいわば禅語録のバイブルである。 明治27年(1894)2月、これを携え瀬戸内海を船に乗り別子へと向かう。新居浜の住居は2畳の玄関、6畳の台所、 3畳の女中部屋以外8畳敷一間という質素なもので(総開の近く現、住友化学歴史資料館のそば)ここに大阪から妻梅子 は子供数人とともにやってきた。
 伊庭を見る人々の目は厳しく不穏な空気が張り詰めていた。 別子の山にやってきた伊庭の行動が変わっていた。特になにをするわけでもなく山を登ったり海岸に下りたりして、ただ素直に人の意見を聞くだけであった。自身はそれを「釣瓶(つるべ)の稽古」と言って笑っていた。
 然し、日を重ねるにつれ山の空気が和んでいったというから不思議である。後に住友の経営近代化に力を尽くす日本銀行の河上謹一が次のように述べている。当時の伊庭氏の着眼は、「根本の問題は人心の離散にある。それには規則を改めるとか取締りを加減するとかというような姑息なことではいけない。上下の間に意思疎通して『情義』が彼我の間に生ずることが大切だ」と。 また、「世の中には、知恵でも腕でもうまく行かず手の付けようがないことがあるが、これが出来るのは人格の力である」とも言っている。
 明治20年代、別子銅山の産銅高は順調な伸びを見せていたが、製錬などに要する薪・木炭や坑木の消費が著しく、それらの用材供給は周辺の山林に求められていたため、付近の山々は岩肌が露出し荒廃の危機に瀕していた。貞剛は鉱山の燃料源を石炭に転換する一方、このまま放置することは「天地の大道に背く」として銅山の大規模な植林を開始している(我国初の本格的な公害対策である)。算盤勘定を度外視してまで行ったのは先祖伝来の自然を元のように返さなければならないという信念であった。 伊庭の理想を踏襲して植林は受け継がれ、明治28年(1895)から昭和25年(1950)までの間に本数で4852万本、面積にして1万3151町歩に及んだ。 住友林業は伊庭の植林事業から誕生した会社である。
 明治27年(1894)11月廣瀬宰平は住友を依願退職、これを機に廣瀬が始めた製鉄事業 や硫酸製造等の不採算事業を片端から中止させた。かくして、銅山の紛争の一方は片付いたが、 煙害の問題が目の前に大きく横たわっている。当時の日本は、欧米列強に追いつくため国家を挙げて近代化に取り組んでいた。 銅はその基礎資材の一つで国家的事業であった。
 ここで、貞剛は離れ業をやってのける。 明治28年、瀬戸内海に浮かぶ無人島の四阪島を島ごと買取り、製錬所をそっくり移転する計画を実行に移した。伊庭が別子に乗り込んでから僅か2年ほどしか経っていない。 工事の予算は80万円、当時の別子銅山の年間収入が約100万円であったことを考えると正に大英断であった。 移転工事は約10年かかり明治38年(1905)に完工した。 同28年11月、住友尾道支店で最初の重役会議を開催、銀行の創設を決議、同30年日本製銅を買収し住友伸銅場を開設(住友金属、住友電工の前身)、同32年本店に帰任同年住友倉庫を開業、翌33年(1900)1月5日に総理事に就任した(54歳)。  同37年7月6日、「事業の発展に最も害するものは青年の過失ではなく老人の跋扈(ばっこ) である」との意志から58歳の若さで引退、江州(滋賀県)石山で浩然自適の日々を送った。 大正7年9月21日、母田鶴子没(享年97歳)。 同11年石山別荘の普請完成、その名称は貞剛が禅宗に傾倒していたことから「俗世を離れながらも人情の機微に通じる」という意味の活気からとって以降「活機園」と号した。
 同14年4月20日夫人梅子没(享年66歳)。

西宿伊庭邸

 同15年(1926)10月23日この地で生涯を閉じた。享年80歳であった。
 同月27日石山で告別法要(導師、山崎益洲老師)が営まれ、翌28日西宿本邸にて神葬。
 「聴松軒幽翁正念居士」 近江八幡西宿伊庭家墓所に埋葬。

活機園(大正8年) 活機園
京都牛ヶ瀬津田邸 兄弟全員(貞剛・梅子の子)が揃って

参考書績 「幽翁」
       「伊庭貞剛」(日月社 神山誠)
さらに詳しくは末岡照啓著伊庭貞剛別子全山を旧のあおあおとした姿に」、および
末岡照啓著「伊庭貞剛小伝」参照

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