庭園(京都市指定名勝)

 廣誠院の庭園は、伊集院の強い指示のもと建造されたようです。伊集院の庭園に対する造詣は深く、七代目小川治兵衛(植治)は庭作りの技術を身につける上で兼常から多くのことを学んだと述懐しています。


 池の水は高瀬川から取水され再びもとの川へと戻るという構成になっています。広間北側の取水口から取り込まれた水は、茶室の真下をくぐって流れとなります。やがて流水は南北に長い園池に注ぎ園池中央に架かる橋を経て、大振りな石組みが配された池尻から排水します。幅の狭い園路は、園池に沿って蛇行するように配置されています。


 渓谷を思わせる書院の西側には、沢飛びが打たれ、高低差のある書院と園池との間には、大きな賀茂の真黒石を用いた沓脱石が介します。さらに書院の大きな庇を支える柱の基石が池中に据えられるなど、随所に軽やかな趣が演出されています。


 添景物は豊富であり、石幢や石灯籠などいずれも個性的です。中でも園池の中央に架かる花崗岩製の橋はきわめて長く、いくつもの矢跡が刻まれており特徴的です。広間の軒先には天正年間(1573〜92)の三条もしくは五条大橋の橋脚を材としたと考えられる手水鉢が据えられています。なお、この手水鉢は、明治期の代表的な庭師小川治兵衛が手がけた平安神宮の飛石に用いられているものと同様です。池上の半分はイロハモミジで覆われており、外周には常緑樹が多く、広間の傍らにはイチョウとナギが植わっています。


 庭園全体の意匠には、近代数寄屋風の趣があります。ただし、橋鋏石は立石などの主要な景石は、後に植治が用いたものとは石の種類が異なることから、庭造りの系譜においては、近世から近代への途上に位置する庭園と言えます。この庭園は、建物と水流が融和する近代の黎明期に造られた庭園として貴重です。

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