京都瓢池園の諸相

この文章は、平成21年に泉屋博古館(京都・東京)で開催された「幻の京都瓢池園」展の図録からの抜粋である。

京都瓢池園製陶所について

滋賀県陶芸の森 主任学芸員 大槻 倫子

 京都製陶所瓢池園(以下、「京都瓢池園」と省略)は、実業家・広瀬満正 (1859-1928)と日本の近代窯業に大きな影響を与えた河原徳立 (1844-1916)、いずれも日本の近代史における重要な人物によって設 立された陶磁器製造所である。これまで、その設立年については、大日本窯業協 会雑誌所収『故河原徳立氏略伝』(以下文中では、『略伝』と表記)(註1)お よび『河原徳立翁小伝』(以下、『小伝』と表記)(註2)の記録により、明治 39(1905)年とされてきたが、明治40年1月17日の新設開業を記した 上京区税務署宛ての(広瀬家文書)が確認されたことから、平成21年に泉屋博 古館(京都・東京)で開催される「幻の京焼き京都瓢池園展」(以下文中では本 展と称す)では京都瓢池園の設立は明治40(1906)年と改める。 『河原徳立翁小伝』には「親戚広瀬家と共同の経営に改めたり」と記されること から、最初は河原によって製陶がはじまり広瀬との共同経営を期に正式に設立さ れたと考えられる。製陶所は、京焼の主要産地であった粟田焼の窯元が集まる京 都市三条通白川橋東8丁目西小物座町312番地(現:京都市東山区西小物座町) に設立され、先掲の「明治四拾年営業名及課税標準届」によると、資本金は5千 円、建物は賃貸で、従業員は9人の規模であった。
 設立者の一人・河原徳立は、弘化元年に江戸幕府の金庫年寄佐藤治左衛門の子 として江戸小石川に生まれた。安政5年(1858)に幕臣であった河原与一郎 和市徳茂の養子となり、明治維新を迎えると旧幕臣として明治政府に出仕し、明 治5年(1873)に内務省内に置かれたウィーン万国博覧会の事務局出品課御 用係および付属製陶所庶務会計主任を命ぜられた。陶磁器の海外輸出が日本にと って前途有望であることを確信した河原は、万博の終了をもって閉鎖されること が決定した付属製陶所の事業を継続拡大し、官立模範工場とすることを建議した。 しかし残念ながらその建議は聞き入れられることはなく、そこで河原は明治6年 に(1873)、付属製陶所の優秀な画工たちを集めて、私設事業として東京深 川区東森下町に海外輸出向けの陶磁器絵付け専門工場「瓢池園」を設立した。 
 その後も国内外の博覧会等の審査官や大日本窯業協会評議員、日本最初の美術 団体「龍池会」陶磁器部門の委員などを歴任、全国窯業品共進会の設立に寄与す るなど、日本の陶磁器産業発展の立役者となった。そして共同経営者となった広 瀬満正は、住友家の初代総理人を務めた広瀬宰平の長男として、安政六年に愛媛 県新居浜市金子村に生まれた。広瀬家の家憲である「業ハ殖産興業ヲ主トシ、国 利ノ増進を念トスヘシ」を実践し、大阪紡績、川崎造船、伊予鉄道の経営に尽力 し、後に貴族院議員を務めるなど多くの殖産興業に携わった。


図1 河原太郎の日英博覧会出品作品

 京都瓢池園を設立する8年前にあたる明治32年(1989)、河原徳立は長 男・河原太郎を工場主として愛知県名古屋市長塀町に輸出向け陶磁器の絵付け工 場・瓢池園分工場を設立し、東京瓢池園の輸出磁器絵付け部門をここに移転し、 これを貿易商社・森村組の陶磁器絵付け専属工場とした。美術工芸部のみ東京に 残していたが、翌34年5月にはこれも名古屋へ移転し、瓢池園の本拠は名古屋 に置かれることになった。(註3)森村組の傘下に入り瓢池園としての制作を中 止し、また息子に譲り自身は事実上第一線から退く一方で、河原は名古屋分場で 理想としていた素地と絵付けの一貫製造に着手している。絵付けのみの作と区別 してこれを「ふくべ焼」と称した。ちなみに「ふくべ」とは瓢箪のことである。 『小伝』には松竹梅文様の染付磁器が写真で紹介されているが、京都瓢池園の製 品と混同されている可能性が高い。(註4)、また明治42(1899)年の日 英博覧会には河原太郎の名でアール・ヌーヴォー風の花モチーフの磁器花瓶が4 点出品されている(図1)が、名古屋のふくべ焼とはどのようなものであったの かは不明である。名古屋分工場は同42年(1909)には経営不振に陥り、森 村組の日本陶器合名会社(現:ノリタケ・カンパニーリミテド)に事業を完全に 譲渡されることとなった。
 日本の陶磁器産業発展の立役者であったともいえる河原が、東京から京都へ移 住したのは、明治35(1902)年のことである。既に六十二歳を迎えていた 河原と実業家の広瀬満正が、京都で陶磁器製造に着手した背景には、新しい時代 の日本の陶磁器に対する強い思いがあったのであろう。当時の京都の美術工芸界 に目を向けてみると、京都瓢池園が設立された当時の京都は大きな変革期を迎え ようとしていた。明治29年(1896)には京都市陶磁器試験所が設立され、 陶磁器の素地や釉薬の化学的研究に取り組まれるようになる。また同35年 (1902)には京都高等工芸学校(現:京都工芸繊維大学)が創設され、欧米 への留学経験がある浅井忠ら指導者を迎えて図案科が設けられ、図案家つまりデ ザイナーの育成にとりくまれるようになった。当時の京都はまさに新しい時代に 向けての陶磁器制作に意欲的に取り組もうとする気運にあふれていたといえるだ ろう。

「今回本邦出品中にて古代模様を其儘取りたるもの多くして新意匠改良の点、更に 見へざるは誠に残念なりし、斬の如き有様にては今日の欧州の陶磁器と競争して 勝を制せん事、甚だ覚束なし」。
 これは明治33年(1900)にパリ万国博覧会を視察した河原徳立が、帰国 後に朝野新聞(12月17日号)に述べたコメントである(註5)。アール・ヌ ーヴォー旋風が吹き荒れたこのパリ万博では、日本陶磁器の意匠(デザイン)改 良の立ち遅れが酷評されたことが知られている。このコメントからは、河原が日 本の陶磁器の意匠改良の必要性を痛感している様子がうかがえる。その六年後に、 日本有数のやきもの産地である京都において設立された京都瓢池園は、心機一転 し、日本の新しい陶磁器の創造を目指した河原の理想と、河原の思いをサポート し、また国益のための殖産興業にむけた広瀬の厚い志が込められていたことは想 像に難くない。
 おそらくこれまで陶磁器製造に関わってきた河原は陶磁器の製造のプロデュー サーとして、そして資金面・販売など経営に関するマネージメントには広瀬が携 わったと考えられる。こうして設立された京都瓢池園では、素地や釉薬、意匠改 良にも工夫をこらし、高級品志向を持ってやきものがつくられた。通称「窯元  ふくべ焼」を名乗ったが、これは名古屋分場での素地絵付けの一貫製造を行った ふくべ焼を継承する意図があったのではないかと考えられる。
 明治42(1909)年、三条通白川橋周辺が第二期琵琶湖疎水工事用地とな ったことに伴って土地が買い上げられ、京都瓢池園は、広瀬が設立した商社・ 泉商会の敷地内(京都府葛野郡大内村大字八条小字木14番地)に移転した。 (註6)「泉商会平面図」(廣誠院文書)によると陶器専用敷地は68坪5合で、陶 器原料倉庫、窯場、本焼窯、荷造り場、陶器場などを備えていた。
 この移転を機に河原は高齢を理由に京都瓢池園製陶所の任を退き、運営は広瀬 に一任されたようである。しかし広瀬は、その経営には苦労していたらしく、製 陶所の経営にはいかに多くの費用が必要であるかを、知人に話していたというエ ピソードが残っている。(註7)
 大正3年(1914)8月25日、河原は遊陶園の会合に出席するために外出 した際に体調を崩し、3日後に帰らぬ人となった。京都瓢池園は河原の死後も営 業を続けていたが、大正9年(1920)8月1日に、泉商会が営業権と敷地建 物を都貿易合資会社へ売却し、京都瓢池園は終焉を迎えることになる。

京都瓢池園の様相-伝統と創造と

京都瓢池園において焼成された陶磁器は、廃業後に広瀬家に引き継がれ、現在は 広瀬家ゆかりの寺・廣誠院(こうせいいん)に、約390件3,800点が所蔵 されている。平成10年(1999)から広誠院所蔵の京都瓢池園の陶磁器調査 が行われ、ここにその概要を報告したい。
 京都瓢池園の陶磁器は、おおよそ陶器が約4割、磁器が約6割を占める。 「ふくべ」「瓢」「平安瓢池園」「京都瓢池園製」「瓢池園」「平安瓢亭」など、 数種類の銘がほどこされており、そのうち約71%が「ふくべ」銘、「瓢」銘が 約18%、「瓢池園」銘が約7%である。「平安瓢池園」「京都瓢池園製」 「平安瓢亭」の銘は、京焼ブランドを意識し京焼として流通させようとした意図 の現われであろう。
京都表池園陶磁器銘一覧
角内鉄絵銘「表池園」
刻印銘「ふくべ」
角内鉄絵銘
「表池園」
染付銘「瓢」 刻印銘「瓢」
染付銘「ふくべ」 刻印銘「ふくべ」 刻印銘・
小判形「ふくべ」
刻印銘・
丸形印「ふくべ」
染付銘
「平安瓢亭」
 成形技法はロクロ挽き成形、鋳込みによる型成形による。装飾技法は、染付、 鉄絵、上絵付による色絵、盛絵、釉裏紅、象嵌、抜き絵、型染め、吹付け、そし て1点のみであるが西洋顔料を一部使用した釉下彩の作(図8)も見られる。
 器種は花器や菓子器、抹茶碗、煎茶茗碗(めいわん)、茶銚(ちゃちょう)、 湯冷まし、急須、水注など、土瓶、香炉、手焙(てあぶり)、火入(ひいれ)、そし て様々な形状の向付・鉢、中皿・小皿、入れ子鉢、飯茶碗・吸物碗・煮物碗、 蒸し茶碗・焼き物皿、醤油差し・のぞき、信玄弁当・銚子・徳利・盃・盃台な どの食器類、珈琲碗皿、ミルク入れ、ビール呑み(図2 磁製ビール呑みの紙札) などの洋食器、盆栽鉢まで、食器を中心に大変幅広い器種を焼成していた。会席 用食器の多彩さは、料亭などからの注文に応えて制作されたものではないかと考 えられる。
        
図8 釉下彩双鶴文化瓶 京都瓢池園
明治40年~大正9年(1970~1920)
図9 瑠璃色花瓶 京都瓢池園
明治40年~大正9年(1970~1920)
図2 「ビール呑」に貼付され
ていたラベル
図13 扇形緑磁香炉 14 扇形黒磁香炉
京都瓢池園
明治40年~大正9年(1970~1920)   
 釉薬は実に多彩であるが、注目すべきは、瑠璃釉や黒釉、茶葉末(ちゃようま つ)、火焔紅(かえんこう)、鉄釉、蛇鼠釉(だそうゆう)、琅玗釉(ろうかんゆう)、 青磁などの中国・清朝陶磁の単色釉、色釉の再現に挑んだ一群である。明治後期 には欧米で清朝の単色釉が高い人気を博しており、京都においても宇野仁松や 清水六兵衛、清風与平らがこれに取り組んでおり、また京都市陶磁器試験所でも 中国陶磁の化学的釉薬研究が行われていた。
 色釉焼成の挑戦という京都瓢池園でのとり組みは、筆者は恐らく河原の意向に よるものであると考えている。広誠院の所蔵品には、発色が悪いもの、釉が流れ ているものなど焼損品も残されており、試行錯誤を重ねていた姿が垣間見られる。
 その他、柿釉、伊羅保、織部など日本で人気の高い釉薬や、当時アメリカを 中心に人気が高かったラスター彩の花瓶も焼成されており、使用釉薬は実に多彩 というべきであろう。
 京都瓢池園の陶磁器には、中国陶磁や朝鮮陶磁の写しや乾山写しなど京焼の 伝統的な器種や作風を意識して取り入れられているものが多い一方で、新しい 釉薬や器形に挑み、新たな創造にも挑んだ姿が見て取れる。
 なお出品歴については、京都美術協会の主催により開催された新古美術展の うち、明治40(1907)年の第12回展に瓢池園として「花瓶青華若松之 図」「花瓶青華梅之図」「花瓶青華老松之図」を出品、同45年(1912) 年の第17回展に「るり花瓶」「菓子器鉢」「香炉」、翌年の第18回展に 「壺形花瓶」「青磁耳付香炉」「丸形大香炉」「爵形青磁香炉」を出品して いる。(註8)第17回の「るり花瓶」は廣誠院所蔵品の「瑠璃色花瓶」(図9)、 また第18回の「爵形青磁香炉」は「爵形緑磁香炉」(図13)と同品ではな いかと思われる。

京都瓢池園の流通

  
図3 大阪瓢美堂 ふくべ焼販売案内(廣誠院文書)
図4 彦根長春院 服部焼陳列販売案内(廣誠院文書)
図5 鉄釉菓子鉢の三越値札

 東京瓢池園は設立当初より海外輸出を視野において活動していたが、京都瓢池園 は海外輸出を主目的としたのではなく、日本国内向けの陶磁器を製造していたと 考えられる。泉商会では扇子などを海外輸出していたが、陶磁器を輸出していた ことを記す書類は現段階では確認されていない。また製造器種についても、わず かな洋食器を除くと、多くは会席用食器、茶陶、花器など、日本の生活でのみ用 いられるような器種で占められていることやひら仮名銘である「ふくべ」が大半 を占めることも、京都瓢池の陶磁器が国内向けであること示しているといえるだ ろう  流通先を知ることができる資料は非常に乏しいが、廣誠院所蔵品には百貨店 「三越」のの値札が貼付された(図5)菓子鉢や花瓶が数点みられる。また大阪 の西井瓢美堂と特約店契約を結び(図3)顧客の注文にも応じて販売されていた ことや(註9)、衆議院議員など地元の有力者が発起人となり彦根長松院境内に て展示販売されたこと(図4)が明らかになっている。(註10)いずれも高級 品を扱う販売店や特定の団体を通じて販売されており、京焼の問屋制度を通じて 流通していたかどうかは不明である。明治42年に泉商会の敷地内に移転したこと から考えると、やはり広瀬の采配により泉商会を通じて、一般の京焼とは別ルー トで流通していたと想定される。このことが近代京焼の歴史に名を残すことなく、 これまでまぼろしのやきものとなってしまった由縁ではないかと考えている。
 また特筆すべきは、京都瓢池園で焼成された「宇治焼」(図71))「別府土 産」、「宮島焼」の存在である。広誠院所蔵の陶磁器の中に、ふくべ焼と同形同 意匠で銘だけ変えて製作したものがあること、また焼損品が残っていたことから、 京都瓢池園以外の名称で陶磁器を流通させていたことが明らかになった。現在で も観光土産品が他地で製造され、販売は観光当地で行われるものがあることは知 られているが、京都瓢池園では当時より、宇治(京都)、別府(大分)、宮島 (広島)の土産品流通の一端を担っていたのである。中でも近隣の観光地である 京都・宇治で販売されたと考えられる「宇治焼」は、宇治橋や茶畑、宇治川の網 代など、宇治の名所を絵付けした皿や、平等院にほど近い「県神社(ルビ あが たじんじゃ)」からの注文品と思われる盃などが焼成されていた。
図71 色絵茶畑文小皿 京都瓢池園
   明治40年~大正9年(1907~1820)

同時代の美術工芸界との関わり

 明治時代後期の京都の工芸界にとって、意匠改良は最も重要な課題であった。 日本の陶磁器意匠の立遅れを危惧した河原がプロデューサーをつとめた京都瓢池園 では、当然ながら意匠検討に最も力が注がれたと考えられる。京都瓢池園の意匠 には、京焼の伝統的な図案が使われたものが多く見られる一方で、明治後期~大 正期にかけて図案研究のもとに生み出されたモダンな意匠や、当時の京焼で流行 していた琳派風の意匠が目を惹く。
図108 染付動物絵角形向鉢
京都瓢池園
 先述のとおり、京都瓢池園が設立された当時の京都では、明治29年に京都市 陶磁器試験所、同35年(1902)には京都高等工芸学校(現:京都工芸繊維 大学)が設立され、新たな取り組みへの地盤ができつつあった。そして同三十六 年(1903)には、京都理工科大学初代学長であり京都高等工芸学校長の中沢 岩太、京都市陶磁器試験所長の藤江永孝の尽力により、京焼の意匠改良を目的と した陶磁器研究団体「遊陶園」が結成されている。中沢を園長とし、園友となっ たのは初代宮永東山、七代錦光山宗兵衛、四代・五代清水六兵衛、初代伊東陶山 ら京焼名家の若手陶工や、フランスから帰国した京都高等工芸学校教授で画家・ 図案家の浅井忠、京都市立美術工芸学校教授で図案家の神坂雪佳、建築家の武田、 ニューヨークから帰国した陶芸家であり図案家・澤田宗山ら、いわば京都の美術 工芸を担う面々であった。同団体では図案家が提案した図案を元に陶工たちが制 作し、園友一同が評議のうえ佳品と認められたものは価格を決めて、遊陶園銘を 入れて販売した。その販売収入の一割を遊陶園の会費に納入し、残りを図案家と 制作者で分配するという仕組みになっていた。良い図案には人気が集中し、陶工 たちは競って制作したという。河原がどのような立場で参画していたかは確認で きないものの、この遊陶園に関わっていたようである。京都瓢池園関係の記録に は、遊陶園との直接的な関わりを示す記載はないが、広誠院所蔵の京都瓢池園に は、遊陶園考案の図案を元に製作したと考えられる作が含まれている。「染付動 物絵向鉢」(図108)は、型染め風の絵付けで動物園の風景を表したモダンな 鉢である。この意匠は浅井忠が遊陶園のためにデザインした図案が元になってい ると思われる。実際に清水六兵衛がこの図案を用いて絵替わりの角小皿を製作し ている。
 また本展の出品作「色絵柳人物図水注」(図111)「色絵柳人物図茶碗」 (図112)は、浅井忠による図案、初代宮川東山の作として知られる「高瀬船 引図陶板」(図113)と、共通する図柄が描かれている。配置や人物の数、服 装などは若干異なっているものの、柳の木の傍らで人物が縄を引くという図案構 成は同じである。これらは二点にはいずれも「ふくべ」銘がほどこされており、 「遊陶園」銘ではないことから、正規の遊陶園の製品ではないが、京都瓢池園と 遊陶園、あるいは浅井忠との関わりを示す品である。京都瓢池園が京都の工芸界 の革新を目指し、それを担う人々と関わりながら製作されていたことを物語って いるであろう。広誠院には、清水六兵衛、三浦竹泉、錦光山、宮永東山、高橋清 山、清風与平らをはじめ、当時の京焼の担い手たちの作が多数所蔵されているこ とも、交流があったことを伺わせる。
図111 色絵柳人物図水注
京都瓢池園
図112 色絵柳人物図茶碗
京都瓢池園
図113 高瀬川船曳図陶額
初代宮永東山
 8月30日の河原の死去を伝える新聞記事には「多方面に趣味を有し、多能に して京都美術工芸界の指導者たりし河原徳立翁」(註11)と紹介された。10 月18日に南禅寺塔頭金地院にて行われた河原徳立氏追悼会は、京都博覧協会、 京都美術協会、遊陶園の三者主催によってとりおこなわれた(註12)。河原徳 立の生涯は、日本の近代窯業の礎を築き、その発展のために正に身を捧げた人生 であった。当時の京都陶芸界の担い手たちは、貴重な指導者の死を共に痛んだに 違いない。

おわりに

京都製陶所瓢池園は、明治40年から大正9年までという、わずか13年間とい う短い活動期間であったが、河原徳立と広瀬満正という近代史上の重要な人物が 関わった陶磁器として注目される。それは明治・大正期という日本人の生活様式 が大きく変化した時代に、日本を代表する伝統的窯業地である京都において、陶 磁の美術工芸界の精鋭たちと関わりながら、河原と広瀬が篤い志をもって日本の 新しい陶磁器を作りあげようとした取り組みであった。その活動の詳細について は、活動期間が短かったこと、また残された記録が非常に希少であるがために、 これまで近代陶磁史の表舞台に現れずにいた。しかし広瀬家の尽力によって、約 110年の時を超えて京都瓢池園の陶磁器がほとんど手つかずのままに同家に引 き継がれたことは大きな意味を持つ。またその後の末裔親族の方々による地道な 調査整理作業が行われ、本展の開催に結びつくことになった。
 本展を通じて京都瓢池園の陶磁器を見る時、京都瓢池園製陶所という河原徳立 と広瀬満正による取り組みが、いかにその後の日本人の新しい陶磁器像を見据え たものであったかを改めて知ることになるだろう。
註1 河原五郎『河原徳立翁小伝』1929年
註2 塩田力蔵「故河原徳立氏略伝」『大日本窯業協会雑誌』267号所収 1914年 大日本窯業協会発行
註3 前掲「河原徳立翁略伝」の記述による。ただし名古屋瓢池園への移転の年については、『河原徳立翁小伝』60頁に「明治35年瓢池園工場を全部名古屋に移すと共に之が管理を長子に委ね、同年八月家族と共に京都に移住し」とある。現在のところ名古屋移転の正確な年は不詳。
註4 『河原徳立翁小伝』に名古屋時代のふくべ焼として写真紹介されている作は、廣誠院所蔵の京都瓢池園の中に同様品および類似品が多数みられる。
註5 欧州陶磁器の進歩「陶器商報」明治34年3月1日号/第93号付録 明治33年12月17日朝野新聞記事
註6 明治42年の土地売買については、売渡人の廣瀬満正と河原徳立より京都市参事会、京都市長西郷菊治郎宛ての明治42年10月4日付「土地売渡証明書」(廣誠院所蔵文書)。
   泉商会敷地内への移転については、「泉商会営業所平面図」(廣誠院所蔵
註7 下郷傳平「放談」『星岡32号』所収 星岡茶寮発行 昭和8年7月
註8 洲鎌佐智子「京都美術協会の活動にみる京都の陶磁器」表3 『近代陶磁第4号』所収2003年近代国際陶磁研究会発行
註9 <広告>(広誠院所蔵)。京都瓢池園製造ふくべ焼販売所 西井瓢美堂 西井一五より配布されたもの。「(前略)今般京都瓢池園主人が多年の嗜好と研究に依て出来したる高尚優美なるふくべ焼陶磁器類種々販売可仕候に就ては 精々勉強致候間 他品と御比較の上陸続御注文被下度 猶ほまた御好みの形状及び色合いは御下命に依って竃元とご相談の上御用相つとむべく候(後略)」と記されている。
註10 <陳列販売広告> 於:彦根長松院境内 発起人:浅見竹太郎、宮崎鐵幹、村岸耕太郎、年代は不詳であるが、京都瓢池園の住所が京都市三条白川東8町目となっていることから移転前の販売広告であると考えられる。広告中では「廣瀬満正氏が製造したる」と記されている。
註11 大阪朝日新聞京都版 大正6年8月30日号
註12 「河原徳立追悼会」(『京都美術協会雑誌 第34号』京都美術協会)



参考文献


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