廣瀬満正


(諱/いみな・生前の実名):満正(みつまさ)
(雅 号        ):赤水(せきすい)、
              拾柴(しゅうさい)
(幼 名        ):亀太郎
(通 称        ):義右衛門

(はじめに)

 廣瀬満正は安政6年(1859)に父廣瀬宰平の長男として伊予国新居郡金子村久保田(現、新居浜市で生まれた。愛媛県を代表する実業家であり京阪神でも活躍した。貴族院議員でもあり、大正3年には勲四等に叙せられた。 明治35年京都二条河原町の高瀬川沿いの別邸に移った。そこが現在の廣誠院である。

(生い立ち)

 廣瀬満正は安政6年(1859)12月28日、父廣瀬宰平・母大阪の商人八尾三右衛門の娘満智(町、於町)の一男として伊予国新居郡金子村久保田(現、新居浜市久保田町一丁目)の廣瀬家本邸で生まれた。父宰平はこのとき32歳、別子銅山で勘場大払方兼見方役頭をつとめていた。母満智は、文久2年(1862)8月5日23歳で亡くなり、一人っ子で当時3歳であった満正は祖父母廣瀬義泰・為によって養育された。
 幼名を亀太郎と言い、赤水・拾柴を号とした。

満正 米(明治28年)

 明治14年(1881)1月、父近江八幡西宿の代官、伊庭兵七郎正人貞隆・母田鶴子 (宰平の姉)の一女米(ヨ子)と結婚七女を儲けている。米は、明治32年(1899)9月28日神戸諏訪山邸で病没、享年34歳であった。
 満正は同42年12月14日歌子(歌江、う多、父京都大久保民三郎徳義・母勢以の長女) と再婚している。

大正4年中江兆民の仏学塾同窓会(東京青山)

 慶應3年(1867)、9歳にして父宰平と親しかった儒者遠藤石山の私塾稽崇館(現、 新居浜市泉川)に入学漢学を学びはじめ、明治2年(1869)11歳で大阪に、翌年東京へ出て林欽次のフランス語塾(迎義塾)と横浜在住のフランス人モノーの下でフランス語を学んだ。同7年、京都に移り文部省直轄の仏語学校でフランス人お雇教師レオン・ジュリーに学び、その後再び上京して東京市神田区(現、東京都千代田区)にあった東京外国語学校(現、東京外国語大学)と中江兆民の仏学塾(現、千代田区四番町辺り)で学んだ。

(上原の開発)

 明治11年(1778)満正は病気のため新居浜に帰郷した。治った後父宰平に従って大阪に行くが病後の身に合わず、再び帰郷した。その後宰平が進めていた上原(現、新居浜市上原)周辺の開墾事業を引き継ぎ農林業に従事した。 満正は茶樹栽培と製茶の改良に務め、自ら宇治で実地練習を行い12町の荒れ地を開拓して茶畑にしたり、茶園の修理や茶摘みに付近の住民を雇って彼らの農業以外の副収入の機会を増やした。また色々な柑橘類を栽培して、この地に適しているかどうかを調査したので、この地方における果樹栽培の模範とされた。さらに植林や造林も進んでこれを行い、官林・共有林の保護に努めていた。こうした実績から、明治20年に創設された愛媛県茶業組合では、新居・周桑郡の組合長となった。
 満正は明治14年に滋賀県近江八幡西宿(現、近江八幡市西宿)から、父宰平の実の姉田鶴の娘で、伊庭貞剛(のち住友家二代総理事)の妹・米と結婚した。明治16年には、角野村御蔵(現、新居浜市御蔵町)に自費で「馨原校」という学校を設立し、教師を雇い、本や学用品を支給して、中萩村上原、角野村御蔵・三ツ石(現新居浜市上原2丁目、御蔵町、中村4丁目)など、付近の児童を集めて教育を行なった。明治19年から義務教育が実施されることになったので、明治18年で馨原校は廃校となった。
 このころの満正は、俳句と狩猟を好んでいた。明治23年7月には、親戚で住友に勤める久保盛明と一緒に東北・北海道を遊覧して、その感慨を俳句集『蜻尾の遊び』にまとめている(明治26年8月発行)。

(関西実業界への進出)

 満正は地元上原の整備を進める一方で、明治20年(1887)に神戸市諏訪山に別邸を建て、京阪神での活動を始めた。最初は製茶の輸出が目的だったようだ。明治22年6月1日からは住友神戸支店に勤務して樟脳の精製輸出や製茶の再製輸出、そのほか銅、アンチモニーなどの商品売買の仕事をしている。明治27年2月22日に、神戸支店貸付課々長となったが、3月24日に退職した。
 住友退職後の満正は、明治30年頃までの間に、京阪神及び愛媛県内を中心に、さまざまな事業の設立や運営に携わっている。 明治32年9月28日妻米を病気で亡くした(享年34)。翌年農学士河原次郎を長女艶香の婿として迎え上原本邸と事業を管理させ、満正本人は明治35年4月から京都二条河原町の高瀬川沿いの別邸(現、広誠院)に移り住んでいた。明治38年5月病気となり、多くの事業から手を引いた。
 健康の回復後明治39年満正は、次郎の実父河原徳立と共同で京都市三条蹴上(現、京都市山科区)に京都瓢池園製陶所を始めた。東京で陶磁器の上絵付け工場「瓢池園」を経営していた徳立が陶磁器の制作を監督し、満正が経営を行っていた。東京の瓢池園は、輸出用陶磁器の上絵付けとして有名だったが、京都瓢池園は国内向けの陶磁器制作が中心だった。

 病気が治った満正は、明治44年6月愛媛県の多額納税者同士の選挙で貴族院議員となり、大正3年には勲四等に叙せられた。この頃の事業活動としては、京都瓢池園製陶所以外に、日本扇子、日本製布、仁寿生命、松山商業銀行(明治29年設立、合併を重ね、現広島銀行)、大東塗料、朝鮮殖産銀行(大正7年設立)、国際汽船(大正8年創立、のち大阪商船、現商船三井に合併)、江若鉄道(大正10年開業、現JR湖西線)、京都取引所(明治17年に設立された京都株式取引所が、京都米穀商品取引所を合併して改称)などの重役を務めた。また大日本武徳会(京都府知事を会長として創立された武道団体。武道振興とその近代化につとめたが戦後解散)、日仏協会等の団体役員も務めていた。

大阪紡績(現東洋紡)取締役
満正は右から4人目      
1番目は相談役男爵渋澤栄一

(晩年)

 大正11年(1922)ころ、満正は再び体調を崩し。静養のため新居浜に長く滞在していた。その後満正の健康状態が回復することはなく、 昭和3年(1928)12月5日早朝、京都別邸で七十歳の生涯を終えた。法名は広誠院寿嶽赤水居士。 従六位を贈られ、一族の眠る新居浜山田墓地と京都南禅寺(天授庵)に葬られた。満正が晩年をすごした京都別邸は、昭和9年3月、 後妻のうた夫人により満正の遺徳を偲ぶための財団法人広誠会とされ、さらに昭和25年3月に、宗教法人保水山広誠院に改められて今日に至っている。
 さらに詳しくは「廣瀬満正略伝ー殖産興業を主とし国利の増進を念とすべし」を参照

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