廣誠院関係者プロフィール

 廣誠院関係者の簡単なプロフィールを紹介します。詳細説明は、それぞれのリンク先にあります。

山崎益洲老師

 明治15年京都府亀岡市の生まれ。幼名中川梅次郎。 京都府丹波町(現、船井郡仁和町)天龍寺派大円寺にて山崎洪寶師に就いて得度。嵯峨天龍寺・蒼玉軒台岳(高木大岳)老師の下で修行、大正5年嵯峨宝筺院住職、同12年天龍寺僧堂師家就任。昭和4年広島県三原にある佛通寺派管長、同8年廣誠院住職、昭和29年佛通寺派管長辞任、同36年12月31日廣誠院にて示寂(80歳)。著書:無門の門、禅味、吹毛軒(法語集)、大道を行く(講話集)他

山崎益洲紹介


廣瀬満正

 安政6年(1859)住友家初代総理人廣瀬宰平・妻満智(町)の長男として伊予国新居郡金子村 久保田(現、愛媛県新居浜市久保田町)で生まれた。愛媛県を代表する実業家で上原地区の開墾・茶樹栽培と製茶の改良につとめた。明治20年以降神戸に拠点を移し京阪神地区で事業活動を展開、淡路紡績を設立、専務取締役に就任した他大阪紡績(現、東洋紡)の取締役、川崎造船所(現、川崎重工業)の取締役にも就任するなど数多くの会社の設立に関わっている。同35年京都河原町二条の高瀬川沿いの別邸に移った。そこが現在の廣誠院である。同39年には京都瓢池園製陶所を創業、その作品が廣誠院に今も伝わっている。同46年に貴族院議員となり大正3年には勲四等に叙せられた。昭和3年12月同邸で70歳の生涯を終えた。

廣瀬満正紹介


廣瀬歌子

 明治12年3月2日、大久保民三郎徳義・妻勢以の長女として京都に生まれる。徳義は京都 大久保家の四代目で、初代は宗三郎氏重、それ以前は四国高松藩(松平氏)家老大久保氏に繋がっていると伝えられている。
 妻米(よね)を亡くした満正は神戸から京都へ移り明治42年12月14日後妻に歌子を迎えている。 昭和3年に主人満正を亡くした後、昭和8年12月23日主人の遺志を守るため私財の全てを投じて河原町邸に財団法人廣誠会を設立(満正邸がのこった原点はここにある)、現在の廣誠院の基礎をつくった。 昭和27年3月25日河原町で病没、74歳であった。
京都南禅寺天授庵に主人満正とともに葬られている。大久保家墓所北区鞍馬口上善寺に分骨。



廣瀬宰平

 文正11年(1828)5月5日、近江国野洲郡八夫村(現、滋賀県野洲市八夫)で生まれる。天保7年(1836)9歳のとき泉屋(住友)に奉公、安政2年(1855)28歳のとき妻相子と共に廣瀬義右衛門・為の夫婦養子となり、慶應元年(1865)38歳で別子銅山支配人となった。廣瀬満正は、宰平と妻町(後妻)の間に生まれた長男である。 明治10年(1877)、住友家総理代人(後の総理事)となり同15年家法を制定、組織の近代化を図る と共にその後の発展の基礎を築いた。明治25年民間人として初めて明治勲章を授けられた。
大正3年(1914)月31日須磨邸で没す。87歳。

廣瀬宰平


伊庭貞剛

 弘化4年(1847)1月5日、近江国蒲生郡西宿村(現、近江八幡市西宿町)の地代官 伊庭兵七郎(正人・貞隆)、母田鶴子(北脇氏、廣瀬宰平の姉)の長男として生まれる。妹米(よね)は叔父宰平の長男満正の妻である。 近江の出色の人物西川吉輔に出会い天下国家のことを学んだことがその後の人生に大きな影響を与えた。 吉輔のすすめで京都御所禁衛隊に属した後弾正台巡察局に任ぜられ、明治に入り函館裁判所に勤務し大阪転勤後は大阪上等裁判所判事となった。 明治12(1879)年1月に官を辞した後、宰平にすすめられ住友に入り、諸種の事業に参画、また、多数の公職にもついている。 当時別子銅山の煙害問題や労務問題に取り組み、荒廃した山の緑化に心血を注いだ。明治33年(1900)、54歳のとき総理事に就任した。
大正15年(1926)隠棲の地石山の活機園で没。80歳。

伊庭貞剛紹介


北脇 昇

 明治34年(1901)6月4日北脇昇太郎、母とみの長男として名古屋で生れる。父昇太郎の両親は父傳次、母絲で傳次は宰平の弟である。つまり、昇と満正は伯父・甥の関係である。 8歳のとき父親が単身朝鮮に渡ったことから明治43年(1910)に満正のもとに引き取られ京都河原町邸で育てられた。満正の妻歌子には子供がなく昇を大変可愛がり、のちに絵を始めてからも画材の購入其の他何一つ不自由することはなかった。大正4年(1915)同志社 中学に入学したが2年で中途退学、大正8年から2年ほど鹿子木孟郎の下賀茂画塾に入り石膏 デッサンの手ほどきを受けた。徴兵検査を機に一時中断するが、昭和5年(1930)に再開したのは30歳の頃であった。この頃プロレタリア美術の全盛期でその流れに急接近していた津田青楓の画塾に入門するや2年後には二科展に入選している。画壇に本格的に登場したのは 昭和12年(1937)第7回独立展に出品した「独活(うど)」を出品したころからで「空港」 をはじめとして、草木や石など身近なものに広大なヴィジョンを重ね合わせた特異な幻想画風の世界をつくった。昭和26年12月18日肺がんのため没(50歳)。 なおほとんどの作品は夫人(北脇かね)が東京国立近代美術館をはじめ京都市美術館、愛知県立美術館他に寄贈されいる。
(注)シュールとは、「現実離れしたさま」「幻想的なさま」を指す。語源は20世紀後半の美術や詩を中心とする前衛芸術運動であるシュルレアリスムからきている。

北脇昇紹介

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