山崎益州老師
  (廣誠院創設開山、吹毛軒、益州大耕)

年譜

明治15年(1882)11月3日 京都府亀岡市篠町(現篠町柏原町頭59)、中川治助の二男(二女二男の二男)として生まれる。幼名梅次郎
明治24年(1891)10月20日 (9歳)京都府丹羽町上野(現船井郡仁和町字上野・9号線右折)天龍寺派大円寺にて山崎洪寶師に就いて得度
明治33年(1900)4月 兵庫県神野、常光若林入学
明治36年(1903)5月 名古屋市杉村塾および細野塾において内典外典を専修
明治37年(1904)9月 京都嵯峨天龍寺僧堂掛搭蒼玉軒台岳老師(高木台岳、台岳周台)の下で修業
明治42年(1909)6月 大円寺住職就任
大正5年(1916)4月 京都嵯峨宝筺院住職に転住、章楠公会を設立、隠密庫裏を再建
大正10年(1921)6月 天龍寺派執事就任
大正11年(1922)5月 (41歳)台岳周台の方を嗣ぎ、天龍僧堂の師家となる。
大正12年(1923)5月 台岳老師遷化
大正12年(1923)6月 天龍僧堂師家就任
昭和4年(1929)4月 (48歳)広島県仏通寺派管長就任、仏堂師家を兼ねる(現広島県三原市高坂町許山22)
昭和6年(1931)4月 禅堂再建
昭和8年(1933)12月 京都廣誠院創立、住職に就任
昭和9年(1934)10月 隠密再建
昭和18年(1943)5月 満州・朝鮮行脚、各地で法話
昭和20年(1945)3月 全国臨済宗派合同管長に就任
昭和21年(1946)3月 臨済宗派合同解体により管長職解任
昭和21年(1946)3月 仏通寺派管長に再任
昭和29年(1954)1月 仏通寺派管長辞任、嗣法の弟子虎山敬宗に管長職を譲る。
昭和36年(1961)12月31日 (80歳)廣誠院にて示寂。遺弟、道雄、清洲、香洲、恵照、泰山、慧光
仏通寺山門 仏通寺境内吹毛軒の建物

山崎益州老師と伊庭貞剛

 貞剛翁は明治時代の住友の大幹部で天龍寺滴水和尚(由利滴水、滴水宣牧)や峩山和尚(橋本峩山・息耕軒・峩山昌禎) と親交が深く、益州老師も雲水時代峩山和尚に従って江州(滋賀)石山の貞剛翁の別荘活機園によく遊ばれたばかりでなく、大正15年貞剛翁の逝去に際しては 大導師を勤められた縁故があった。老師が貞剛翁の死去に際し導師をされたについてはこんな逸話が伝えられている。

幽庵主人貞剛より
    益州老師へ
 あるとき老師が1人でひょっこりと活機園を尋ねられた事があった。ちょうどその少し前に貞剛翁と懇意で天下の名士だった人が亡く なり翁はその葬儀に参列して導師の引導を聞いたがその文句に気力が無く甚だ気に食わなかった。益州老師の顔をみた貞剛翁はその事をおも いだし、突然「わしが死んだら、あんただったらどんな引導を渡してくれるか」と訊いた。老師は即座に「山僧更に向上の一著子有り。――私の引導はこれです」 と応えられたので貞剛翁は膝を打って「結構だ。誠に結構だ。」と喜色満面の態であった。このとき貞剛翁死去の際、益州老師が導師を勤められる事が決まったのである。

遺稿集
 益州老師の一周忌に当たり遺稿集「吹毛軒」が昭和41年6月に大本山仏通寺より発行された。
著書
 無門の門、禅昧、大道を行く(講話集)他


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