- 仏通寺は応永4年(1397)小早川春平が愚中周及を迎えて開いた臨済宗の大寺である。
- 仏通寺開山堂へ上がる石段下の右側正面に「吹毛軒益州和尚」の墓(本墓)があり、大円寺及び中川家菩提寺の黒谷浄土宗大恩寺(篠町広田)に分骨、廣誠院庭園南東に石碑咄哉咄哉(とっさい、とっさい)がある。
|
|
|
仏通寺山門 |
|
仏通寺境内吹毛軒の建物 |
山崎益州老師と伊庭貞剛
貞剛翁は明治時代の住友の大幹部で天龍寺滴水和尚(由利滴水、滴水宣牧)や峩山和尚(橋本峩山・息耕軒・峩山昌禎)
と親交が深く、益州老師も雲水時代峩山和尚に従って江州(滋賀)石山の貞剛翁の別荘活機園によく遊ばれたばかりでなく、大正15年貞剛翁の逝去に際しては
大導師を勤められた縁故があった。老師が貞剛翁の死去に際し導師をされたについてはこんな逸話が伝えられている。
幽庵主人貞剛より
益州老師へ
あるとき老師が1人でひょっこりと活機園を尋ねられた事があった。ちょうどその少し前に貞剛翁と懇意で天下の名士だった人が亡く
なり翁はその葬儀に参列して導師の引導を聞いたがその文句に気力が無く甚だ気に食わなかった。益州老師の顔をみた貞剛翁はその事をおも
いだし、突然「わしが死んだら、あんただったらどんな引導を渡してくれるか」と訊いた。老師は即座に「山僧更に向上の一著子有り。――私の引導はこれです」
と応えられたので貞剛翁は膝を打って「結構だ。誠に結構だ。」と喜色満面の態であった。このとき貞剛翁死去の際、益州老師が導師を勤められる事が決まったのである。
遺稿集
益州老師の一周忌に当たり遺稿集「吹毛軒」が昭和41年6月に大本山仏通寺より発行された。
著書
無門の門、禅昧、大道を行く(講話集)他