北脇昇 シュールレアリスト 理知の画家

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 以下は、北脇昇展図録(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、愛知県美術館/1997)より引用したものである。

プロローグ

 1901年名古屋に生まれる。後1910年に父が単身朝鮮に渡ったことから、 8歳のとき京都の叔父広瀬満正の元に引き取られ京都中京区の屋敷(現廣誠院)で育てられ、以後終生ここで過ごすことになる。

絵の始まりと絵画への行動と変遷と
 1915年同志社中学に入学の後、1919年から約2年間年鹿子木孟郎の下鴨画塾に入門、石膏デッサンなどの手ほどきを受ているが 、何故かその後画業を中断している。 本格的に絵の取り組みを再開したのは1930年、30歳近くになって津田清楓の画塾に入ってからだが、 その頃の作と思われる花の絵(花と白磁の壺他)は技術的にはかなりの高さに達しているようで、 入塾2年後に早くも二科展に<マート>ほか1点が入選している。

鹿子木孟郎: フランス官学派の伝統的な絵画様式を理想に掲げ、堅実な手法で肖像画や風景画にまれに見る質の高さを示した。 関西美術院長を務める。1871〜1941
津田清楓: 関西美術院に入る。浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事。 安井曾太郎と共にパリに留学、帰国後二科展創立に参加。親友の夏目漱石に油絵を教えている。
≪マート≫
東京国立近代美術館蔵
≪かぼちゃの花≫
東京国立近代美術館蔵
人物はなく煙突から出る煙が人の存在を暗示している

 1930年という年がプロレタリア美術の全盛期に当たっていること、そうした中で師の清楓もこのプロレタリア美術に急速に接近し、33年には、逃亡者をかくまったかどで連行留置され画塾も閉鎖されたこと…そうした身近に迫る風雲急な雲行きの中で北脇はいかに行動したか、彼が清楓塾解散後、直ちに新しい洋画研究所の中で奔走し、2ヶ月足らずで独立美術研究所の開設に漕ぎつけているのである。

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シュールレアリズムへの冒険

 北脇昇が≪断層面≫と≪独活≫の2点をもって画壇にシュールレアリストとしての面目を現したのは 1937年3月に開かれた第7回独立展でのことである。 切り立った≪断層面≫の岩肌を画面いっぱいに描いた前者はともかく≪独活(うど)≫の方はいかにも唐突な変貌を告げるものである。

≪断層面≫
東京国立近代美術館蔵
≪独活≫
東京国立近代美術館蔵
独活の一部
血脈が見えるようである

 北脇昇が何時からどういう経緯でシュールレアリズムへの関心が生まれたのかそして何時からそうした変貌が具体的に準備されたかは余りはっきりしていない。

 シュールレアリズム絵画がわが国美術界でひとつの動きとして登場したのは1929年の第16回二科展に古賀春江、安部金剛、東郷青児らが こぞって其の種の作品を発表したのだが、その翌々年にパリでキリコやエルンストの感化を受けた福沢一朗が37点の作品を第一回独立展に特別陳列し、さらに彼が帰国し、作品やエッセイを精力的に発表し始めるとシュールレアリズムは画壇の一勢力を形成するにいたった。 文献による紹介でも北川冬彦による抄訳の形で『詩と詩論』に掲載されたほか、『アトリエ』の『超現実主義研究号』(1931年1月)や、瀧口修造による『シュールレアリズムと絵画』の翻訳刊行(同年)などが特記される。
 北脇昇に関していうと彼が寄稿した『子供の絵とシュールレアリスト』と題するエッセイにおいてである。この文章が、新日本洋画展の際に併設された児童画展に蝕発されたものであることに注目した中村儀一氏は、北脇昇の中に「超現実主義への急激な屈折を直接動機づけたものはこの児童画展ではなかったかと考えることができる。」という。其の可能性は、勿論あるだろうが、彼がエッセイの中で、子供の夢は覚めることを知らないのに対し「先ず現実に生き、其の規範を超克して夢見ることができてこそ正真正銘のシュールレアリストといえるのではないだろうか」等々と書くとき、彼は自分なりにこの動向を十分に理解し、シュールレアリストとして歩む覚悟ができているといったふうである。
 作品の上では≪独活≫以前にいくつかの注目すべき作品が描かれている。 ≪習作≫は元々"文化勲章”と題される予定だった≪章表≫に組み込まれることになる作品だが、この1936年の習作の段階で、すでにモチーフの樹幹は大地から離れ四隅に塗り残しのあるニュートラルな青い地の空間へと浮上している。

 もはやアトリエの片隅や庭先に見える、我々の視覚に映った木の幹ではなく相対した現実空間、日常空間から切り離された"オブジェ”としてのそれが俎上に上がっているとみてよいだろう。枝(首や腕)を断ちはらわれたこの樹幹は、同時期の銅版画では石膏トルソの同胞として、鉄格子の入った窓のある一室の中に描かれており、更に≪章表≫では窓が省かれタイトルがより抽象的なものに変えられた。現実の事物や空間への説明的な参照の可能性が断たれることによって、一個のシュールレアリズム空間がここに成立したのである。

≪習作≫と≪銅版画≫
東京国立近代美術館蔵
≪章表≫
東京国立近代美術館蔵
(左上に鉄格子が見える)

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シュールレアリズムへの進路

 ≪独活≫や≪空港≫、そして其の翌年京都市美術展で京都市長賞を取った≪眠られぬ夜の為に≫などは北脇の絵の中では最も親しまれている作品であり1937年に「観相学シリーズ」が構想されるまでの一時期は、かれのシュールレアリズム時代のきわめて重要なエポックといえよう。この時期に彼は写真的な写実やさまざまな画肌の効果の研究や、それらを一つの画面の中で組み合わせた表現、或はフロッタージュ(擦りだし)、コラージュ、デコルコマニー、更には集団製作の可能性など、シュールレアリストたちが開発したさまざまな新しい技法や手法を盛んに試みている。
 この時点でシュールレアリズムへと進路を定めた出鼻の1937年6月に京都で「海外超現実主義美術展」を見ることができたのは実に幸運であったと考えられる。
 ここに北脇昇のシュールとしての代表作を2,3上げてみる。

≪空港≫ ≪眠られぬ夜の為に≫
東京国立近代美術館蔵 京都市美術館蔵

 更に≪最も静かなる時≫が発表された

東京国立近代美術館蔵


 集団製作による試み≪京都市街図≫

北脇 昇 平安京変遷図
中央
小牧源太郎 藤原 時代
右上
吉加江 清 足利 時代
左上
原田 潤 桃山 時代
右下
小石原 勉 徳川 時代
左下
東京国立近代美術館蔵

 北脇の【図式】絵画が、具象的な、イメージの間に象徴的な連鎖関係が持たされている点でシュルレアリズムの考え方が応用されておりそれらを関係ずけるために幾何学的抽象形態が用いられた。「図式」絵画の可能性について…美術現象が社会との結びつき方を問題とする機能美術を提唱する。しかも機能主義美術と言う様な形式差を主張するものではなく、あくまで社会との結びつきつまり世界の法則を把握することにあり絵画の形式は、それを表現するにふさわしいものであったはずである。その模索の結果としてシュルレアリズムと幾何学的抽象が夫々の機能に従って統合された点に注目したい。

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数式を駆使した試み


≪竜安寺石庭の七五三構造≫
東京国立近代美術館蔵
≪流行現象構造≫
京都市美術館蔵
≪(a+b)2の意味構造≫  東京国立近代美術館蔵

 瀧口修造はのシュルレアリズムと抽象美術の対立を「象形と非象形」の問題に置き換えて解説しながら両者を旧態的な自然主義に対立する運動として対極的に捕らえ融合の可能性を示唆した。瀧口の考え方は、北脇に多くの示唆を与えたようにおもわれる。というのも瀧口の【象形と非象形」という概念に呼応するかのように【相象と非相象」を寄稿している。

 ここで北脇は自然界のさまざまな現象を数学、自然科学、更に易まで引用して偶数/奇数、相象/非相象の対概念から説明し、何れも対立的であるよりも相補的であることこれである。これによってレアリズムとシュルレアリズムとの相補性も理解できるであろうし、夫々の傾向を単にその表ればかりで論断することの非も了得できると思うと述べている。
 北脇が「図式」絵画をどのようにして解決しているのだろうか?北脇の発表した諸作について瀧口は次のように評している。 「【北脇昇の≪(a+b)2の意味構造】等は抽象的概念と具象との2次面上の結合が意図されている。 興味深い実験であるが、この場合にも異なる次元を持つ象形体がある種の観念図になることは面白い」と。

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「図式絵画」を読む 易を用いた「図式絵画」

 第一回美術文化展で発表された北脇の作品は主に自然科学的関心を発想の原点としていたが第二回展に発表された≪周易解理図≫には新しい要素の導入が認められる。古代中国の易経の理論がそれである。
 彼の意図は複雑怪奇な歴史的現実を切り開く未踏の地平世界、何よりも新しい絵画空間の開拓にあったはずだが実は混沌として未知不可知の未来を超然と予知する易つまり数的法則性そのものの超自然的な神秘感に対する異常な関心にあったということは考えられる。

≪周易解理図(乾坤)≫(けんこん)
    天と地又陽と陰を表す。
東京国立近代美術館蔵
≪周易解理図(泰否)≫(たいひ)
京都市美術館蔵
≪周易解理図(巽兌)≫(そんだ)
 巽 従順卑下の徳を表す。
    風にかたどり東南に配す
 兌 人身では口自然界では凹を表す。
    沢のかたどりすべての穴を表す。
東京国立近代美術館蔵

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筆を折る

≪春に合掌す≫
いなり記念館蔵

 戦時中のこと昇の義兄の元に1枚の画が送られてきた。
 琵琶湖側から見た比叡山かと思う。観音様が静かに合掌をされておられる。ここ広誠院からも出征兵士が送り出された。そんな時武運長久と無事帰還を願ったのではないのでしょうか。

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戦後の絵画


≪朱と紫≫  京都市美術館蔵

 一見のどかな田舎の風景である。 向こうに愛宕山が夕日を浴びて紫色に輝いている。枯れ野に木立ちガ数本見える。これを解釈してみたい。 左上に孔子の言葉 <子曰く 紫之悪なり 朱を奪いて美し>。
 この絵の景色は夕方になると今でも見られ、実在の山である。 北脇は終戦直前、徴用され京都から大阪は住友金属へと通っていた。そのときの車窓から見た景色を絵にしたもので孔子の言葉を引用し、手前の枯野は大阪の焼け跡を、立ち木は家、ビルの残骸、夕日は日本(朱)紫はある大国をさしてはいないだろうか? このように解釈してみた。更にもっともっと深い意味はあることと思うが。

さあ 主よ どこへ行く ≪クオ ヴァディス≫
東京国立近代美術館蔵

 戦後のこと無事復員帰還した兵士が迷っている。赤旗を振ってデモ行進が行われている。このころ連日職を求め政治を批判し又職場ではレッドパージが強引に行われ職を追われる者が多くいた。ここに参加しようか?焼け跡には驟雨が降り、住むところはあるのだろうか?バラック(カタツムリの殻)でもあるだろうか?  この不安な世の中に放り出された若者は立ち止まってさあどこに行こうか。

≪放物線≫
東京国立近代美術館蔵

 昔北脇昇の画に ≪火葬場≫という題名の画があった。今は不明である。 戦後のこと 彼がある人に言ったこと"トルストイのことばに暗闇は凡てをつつみ隠す。雪は凡てを美しくする”。
 北脇昇の個展のとき修復家が昇の絵が滑らかでなく凹凸が激しいため(画風が違う)レントゲン撮影をされた時写ったのは頭蓋骨 レンガ組みなどが見えた。まさにこの≪火葬場≫ではなかったか。

≪自画像≫
東京国立近代美術館蔵

 北脇昇は藁半紙にこの自画像を残して旅立った。
 1951年12月18日 逝去 享年50歳  「天真自性居士」
 嵐山 六尊坊に眠る。


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北脇昇 略年譜


1901年6月4日 名古屋に生まれる 父昇太郎 母 とみ
本籍 愛媛県新居郡 中萩村
1910年 京都市中京区河原町 広瀬満正の下に移る
1919年 鹿子木孟朗の画塾に入る
1921年 仝 上塾退塾徴兵検査甲種合格
1927年 若森かねと結婚  
1930年 津田清風塾に入る
1931年 同塾京都塾委員に推挙される
1932年9月 ≪跨橋≫≪Mart≫ 二科展  初入選
1933年9月 ≪砂置き場≫入選
1936年4月 ≪明暗三裸婦≫  第6回独立展 入選
1937年9月 ≪空の決別≫≪空港≫≪探検飛行≫≪浦島物語≫出品
1938年3月 ≪浄火≫≪探索者≫入選
1938年5月 ≪眠られぬ夜のために≫≪最も静かなる時≫出品京都市長賞受賞
1939年10月 ≪(a+b)2の意味構造≫≪ 相称の非相称≫等
1941年4月 ≪周易解里図≫≪乾坤≫≪八卦≫≪泰否≫≪竜安寺石庭ベクトル構造≫
1942年5月 ≪春に合掌する≫≪鴨川風土記≫出品
1944年4月 住友金属工業人事課入社
1945年8月 退社
1947年2月 ≪独活≫
1948年6月 ≪秩序混乱構造≫
1949年3月 ≪クオヴァディス≫
1951年4月 結核療養所にはいる
1951年12月 逝去 戒名(天真自性居士)
12月21日広誠院にて告別式
須田国太郎 津田清楓 弔辞を読む